泥屋敷  作 痲酔ヤスタカ

ふと何気ない道すがら、紺に近いような青い空が退屈な日常に光の矢の如く舞い降りた。
逆さ坊主にも似た光の雨、袈裟は逆上、風になびいてはいまい。
重力はおろか、物理学全般を“しかと”している。
荒廃したカラダにパラノイアは否応なく蝕み、
立ち止まった先はこんなところに存在していたか、一軒のあばら家。
けったいな日本家屋のなれの果ての外装とは裏腹に、
内部はコンクリート打ちっ放しスケルトン、
ど真ん中には湯船、壁には写真が一枚、少年と少女の笑顔・・・おそらく兄妹であろう。
窮屈で仄暗い じめっとした平屋の天井の隅に風穴があり、鼠が往来している。
風穴からは逆さ坊主の顔が覗き、蜘蛛の巣が家主を失ったままどんよりと漂っている。
「薄汚れた身体を、仄かに火照った体躯を、洗い流せ!」
とばかりに蛇口を捻れば、数多の大蛇。
よもや華やかな化け物屋敷。わたしはバスタブに身を沈め、化け物使いの荒い、
主(あるじ)に成り下がってた。
遠く遠く働き鼠の横行の先に見える紺に近いような青い空のずっと先に
見慣れたわたしが背中を丸めて立っている。
化け物使いじゃないわたしが立っている。
こき使われているわたしが立っている。
パラノイアに蝕まれたわたしが立ちつくしている。
大蛇が体中を這い廻り、水流は止まった。
全開の蛇口からは何も出てくる様子はない。風穴からの木漏れ日も消えた。
坊主も袈裟も家主不在の蜘蛛の巣も横行する鼠も跡形もない。
視界にはひたすら静寂の闇。闇。闇・・・・
随分遠くの爆音が微かに聞こえる。雨が降ってきたようだ。
恐らく光ではない液状の雨が・・・
闇に映る雨模様を眺めていたら、僅かな若かりし日の記憶が脳裏に蘇る。
わたしは釣りが趣味だった。
丑三つ時に家を出て、日の出と共に竿を垂らす。釣りと言っても釣れなくていい。
静かな湖畔で小舟を浮かべ、竿をゆっくり垂らし、妄想する。
なまじ釣れると竿を引かなくてはならないし、
有意義な妄想を破壊されるのを著しく嫌った。
どうして辞めてしまったのか?
湯船のような小舟に揺られた日々に涙腺はゆるむ。
あの日は“おけら”で夕闇に湖面が光っていた。
入れ食いだと苛立って帰ってしまうから、“おけら”なほど家路は遠くなる。
激しい夕立が夜半まで続いたものだ。今宵に酷似している。
止めどない雨水が風穴から壁面を伝って入ってきた。
真っ赤な真っ白な真っ青な真っ黒な雨。夜の雨。暖かな雨。
雨はやがて廃屋全体を潤し、廃屋が一つの湯船となり、大蛇は姿を隠してしまった。
わたしはすっかり皮膚呼吸を止められた。
藻掻き苦しむ身体にめんどくさそうなココロ。
だけどずっと遠くで蠢いていた、こき使われていた、あの頃のわたしよりも
きっとずっと前向きだ。
力一杯力泳し、何処か、遠い何処かへの脱出を試みる。
「苦しい。助けてくれ。誰か助けてくれ。生きたいよ。逝きたくないよ。死にたくない
よ。」
肺胞の酸素残存量が確認できない。窒素でも水素でもヘリウムでもなんだっていいさ。
わたしの呼吸を止めないで・・・くっくるしい・・・
思考ストップするあの夜のわたしも恐らくはこんな感じだった。
すっかり夜も更け、豪雨で視界すら確保できないほど、
ふと何気ない道すがら、一軒のあばら屋には少年と少女が二人で住んでいて、
わたしは雨宿りをした。
天災に煽られ苦しみの果てに辿り着いたあばら屋の苦しみに喘ぐ兄妹。
わたしは彼らを見ていられなかった。天井には風穴が一つ空いていて、
家主不在の蜘蛛の巣・・・・脳内に犇めく僅かな記憶・・・
絶命を取り除くようにわたしは穴に逆流した。もはや手足に力は入らない、
五臓六腑が沈黙、かろうじて首だけが機能している。必死な形相の生首と化した肉体。
我が血液が雨水に溶けだしてケロイド化した得も言えぬ色彩の水溶液で、蠢く肉塊。
薄れ行く意識の中で「誰かあの蛇口を捻ってくれ!」と断末魔の叫びは液体に遮られ、
口内から溢れ出る気泡の先にあの風穴からあの兄妹が・・・いやあの壁の写真が流出して

る。
意識があるだけ苦痛だ。
あの兄妹の復讐か?あの兄妹の嘲笑が微かな聴覚を刺激する。
空恐ろしくなった視界を光の雨が遮断。
もうどっちだっていいのだが光か水かは判断がつかない。
当然写真か本物かの分別もつかない。
小舟から竿を垂らすこともままならない、生首という名の竿を必死に垂らしたわたし。
この竿は一体何を釣るため?わたしには解らない。
あの時幼い首にかけた掌(てのひら)は失われたまま・・・
ただ今は、
コンクリートのバスタブが雨水に溶けて泥屋敷。
あふれ出る生首はきっと・・・・蛇口から咲く一輪の花。