蟲対談「蟲籠」第四回 パルテノンナコ

収録日4月21日(横浜「chano-ma (チャノマ)横浜赤煉瓦倉庫店」http://www.yokohama-akarenga.jp/shop_res/shop/351/

遂に4人目の登場となる蟲対談「蟲籠」、この度のご登場はパルテノンナコである。
パルテノンナコと私はこのたびまで接触が殆どなかった。面識程度として、彼女が出演した舞台を加納おりえ先生に誘われて観劇した際、一言二言話したことはあるが殆ど挨拶程度のそれである。ほぼ初対面に近い。とにかくパルテノンはご多忙である。舞台役者、某弱小球団の マスコットガール、あらゆる祭りに出現するイベントコンパニオン、議員に正 面から食って掛かるウグイス嬢、マイナーな表彰式に決まって出現するアテン ド嬢と様々な職業を掛け持ちし、日々文字通り“走り回り”こなしている。私はそんな彼女の日記を読み舞台を拝見し・・・ちょっとしたファンみたいな存在であろう。そんな一ファンまがいの素朴な質問をパルテノンナコとの対談ではぶつけてみた。
一言でパルテノンナコの魅力を表現するならば良くも悪くも“がむしゃら”である。
がむしゃ-ら 0 【我武者ら】 (名・形動)[文]ナリ 一つの目的に向かって、勢い込んで向こう見ずにする・こと(さま)。三省堂提供「大辞林 第二版」より
さてとりあえず対談の一部始終を一気に掲載する。

パルテノンナコ(以下P) こないだの日記にも書いたけど、もう凄い考えまくりですよ。最近。じゃあ結局わたしの目指すべきものは何なんだ?って
痲酔(以下M) それは芝居というジャンルの中での方向性ではなくて、もっとジャンル別なこと?
P そう。もしかしたら今やってる芝居も過程でしかないのかもしれないなあって
M それはそうかもしれないね。
P じゃあ何だろう。もう将来の夢とか言ってられないじゃないですか?もっとリアルな目標とかにしないと。リアルなモノが欲しい。
M リアルか・・・おいらはリアル感がないよ。生きてるって事に。
P そうですか?
M ない。リアリティがない。なんでか解らない。
P じゃあどういう時に「俺って生きてる」って感じますか?
M 怒ってる時だね。
P 人に対して?自分に対して?
M 他人に対して怒ることは基本的に少ないから、自分に対してだね?あとはもっと集団的な、社会・・・社会って言うとでかすぎるから、其処まででかくなくてもシステムに対してとかに対する怒りはあるかな…でも、ないかな?少ないかな?どっちかと言うと・・・歩いていて転んで痛いとか、小指ぶつけて痛いとか、「痲酔君てこういう人だよね」と漠然と決めつけられたりとか、そういう些細な小義な怒りが多いかな。
P なるほどね(笑)。そう言うときに自分の原動力を感じますか?
M 感じるね。だってさ。いやああれですよ。イラクの派兵とかについて怒りは持たないもの。
P 持ってそうですよね。痲酔さんは。
M よく言われるけど、無いよ。全然そんなのない。凄い些細なことで怒るもの。
P 小指ぶつけたり?(笑)
M 日常生活のが大切だよ(笑)。
P うん。
M 話としては出来るけど、思ってないよ。だからパルテノンナコの日記「オレンジニュースhttp://www.myprofile.ne.jp/p_nako+blog」はいいですよね。そう言う意味で近いモノを感じる。
P (笑)
M 凄い日々のことに、パーソナルなことに怒ってる感じ
P そっか怒ってるのかなあ・・・なんかもどかしいの自分が…
M もどかしそうだよねえ。でもその辺の人より遙かに頑張ってるのになあ
P 全然たりない。生きてるという実感がないからこそ、なんとかして…
M (話を遮って)無いんだ?
P 無い!無いね。どんなときに(生きてる実感を)感じるかな・・・やっぱり誰かと一緒に居る時しか“生きてる実感”は感じられないかも知れない。一人で居る時は絶対に確証が持てない。
M それは現代人の病だと思うよ。おいらも含まれてるけどさ。例えば、極端な意見だけど、明日あのマンモスを倒して喰わないと生きていけない、という暮らしをしていたら、実感はあると思う。解らないけどね。
P あると思う。生きるための手段を考えなきゃいけないわけだから。
M そうそう。もっと身近な事を言えば、戦中とか戦後まもなく、でさえ。
P 生き延びなきゃいけないから
M ということはごく最近まで実感はあったんじゃねえかなってさ。
P 生きることが簡単になっちゃったから
M 金あれば暮らせるからね。金と言っても巨万の富というわけじゃない。
P 生きてく手段というのを探さなくても良くなってしまったから、生きてく意義を問うようになってしまったんでしょうね。中に中に目が向いてしまうというか。
M そんな大したもんじゃないと思うんだ。人間て・・・そう思うようにしてるんだけどね。一人じゃなんにもできないでしょ?おいらは下町生まれで江戸時代に興味があるんだけど、江戸町民の基本的な美学というか精神性は「粋」という言葉に収斂されている。方々でその「粋」について語られているけれど、江戸の庶民は恐らく生涯で極少数の人にしか遭遇しない。100人は大袈裟かも知れないけど、短命だし、ご近所付き合いしかなかった。
P そうか絶対数が少ないのか。考えたこともない
M ご近所さんにしか逢わないで生涯を終えるという暮らしを強いられているわけですよ。そんなに遠くまで歩いていけるわけじゃないし。人口密度も当時としては世界屈指の江戸でも今より低い。生涯で関わる人と毎日逢うわけだ。
P なるほどね。
M その極少数な人間関係の中で、如何に新鮮な己を見せるためにかっこつけるわけですよ。「俺のがこんな凄いことしたよ」と自慢したがる。正にそれを粋と言っているんじゃないかと思うんですよ。現代は次々に新しい人間関係がやってくるから、その洗練度は当時よりも格段に落ちるでしょう。
P 深まらないですよね。第一印象を良くしようとしてしまいますよね。
M 江戸時代は天下太平だったのに“生きる実感”が消えなかったのは、貧困だったからご近所付き合いを第一にしないと、その人間関係に転けたら生きていけない。やばいわけですよ。逃げなくちゃいけなくなっちゃう。でも現代はいいんだもん。目の前にいるこの人に嫌われても、逃げるのも楽だし。次!って行けるもん。そういう細かいことも含めて実感がない。隣の娘が朝帰りしようが、何だろうが、関係なく暮らせちゃう。誰も文句言わない。その事実がやだってことじゃない。それが民主主義…いや“なあなあ”主義なのかもしれないね。美味しいとこどりだけは出来ないんだから、そういった悪い風習?とかもまあしょうがないけど、やっぱり(生きてる)実感はない。
P 今の噺を聞いて思うのは、その100人という人間に江戸庶民の一人の思い入れというかけるエネルギーは凄いんだろうなと想像できる。私は年間365日365人に「初めまして」と言ってる気がするんですけど、わたしはその365人にその江戸庶民と同じくらいのエネルギーで接している気がするんです。
M (笑)凄いね。ないね。おいらは恐らく忘れるね。3日後くらいには。全くないな。それ。何で、そう思うの?
P 私は出来るだけ多くの人に私を記憶して欲しいんです。最近解ったことはそれがわたしなりの生きてる実感の取得方法なんだって思うんです。さっきわたしは“対人”じゃないと生きてる実感がないって言ったけど、結局その人が「私が今いる」って認めてくれたことで、存在を実感できる。人に生かされてるっていうか。だからなるべくその人によく見て貰えるように、っていうエネルギーは初対面の人全ての人に使っている。そりゃ初めての人に「私彼氏とどうとか〜」とかは話さないですけど、なるべくその人に憶えていて欲しい。一回しか逢わないかも知れないのに妙なエネルギーを投資しますね。
M そりゃ立派だよ!なかなか出来ないことだよ。
P でもなんか可笑しくないですか?
M まあ可笑しいね。
P (笑)
M 率直に言うと(笑)。だけど可笑しいとかはいいんだよ。別に。それはでも凄いことだよ。おいらには出来ない。
P それはやりたいかやりたくないか。だから、痲酔さんは別にやりたいわけじゃないでしょ?
M 確かに。だけどやらなきゃいけないんじゃないかっていう節はあるよ。おいらね。甘えてるんだろうな。割と変人ぽいから憶えて貰えるんですよ。そこに甘えてるんだろうなってさ。
P それは痲酔さんを認めていいところですよ。わたしはその自信がないから、違う方法を探すわけじゃないですか。
M 自信がないってのは自分がone of themだって思ってるってことなの?
P ?
M だから不特定多数の、ジュッパヒトカラゲの一部分を担ってるという意識が強いという現れでしょう?
P そうかもしれない。でもみんなと同じに見られたくないと思ってるからこそ、何とか「私を特別だと思って」みたいな。
M それは大変でしょ?この場合の大変という意味はエネルギーを発するのが大変というのではなくて、相手に実際に特別視されたら大変じゃない?特別視されるってのは求められることも大きくなるでしょ?
P 確かに知り合った人全員に「こう思って!」というのは在るけども、その中でもレベルがあるから、
M 人間だから好き嫌いもあるからね。
P そりゃ私だって嫌いな人にそこまで出来ない。たぶん他の人が考える処より、そのアピールの一定ラインが高いと思うから、勘違いしちゃう人はいるかもしれない。
M 逆言えば“スペシャル”が作りずらくなってしまうんじゃないか?と思ってしまう。
P そうそうそう。たぶん私恋愛感情で人を好きにならないんですけど、
M 人間的にってこと?リスペクトできるから好きになるってこと?
P うーんと、うーんと、うーんと・・・「この人と付き合いたい」とか、「この人とどうこうしたい」とかそういう欲求はないんですね。またわたしは人を好きな基準値が高いんですね。とてもとてもみんなが好きなんですよ。他の人の恋愛感情に近いラインでみんなのこと好きなんですよ。おりえさんもアコちんもそうだし。
M 解るけども、別個ではないんだ。全然違うものではないんだ。同じレール上に全ての好きだという感情があるんだ?
P そうなんですよ。ちょっと突き出た人に“ぽっ”っとなるのかなあって一週間くらい前に思ったんです。
M それね。もしかしたらね。おいらも同じかも知れない。
P ほんとに!?
M しかしそういう発言をするとね。おいら男だから、非道いと評されるね(笑)。よく言われますね。「みんなに愛を振りまき過ぎ」とか(照)
P でも悪い事じゃないでしょう。
M 悪い事じゃないの?
P 確かに痲酔さんの特別な人になりたいと思っていたら、それは悪いことかもしれない。「悪いことだよ、それは」って言うかも知れない。
M 聞きたいのはね。おいらがその突き出た人にアピールするに当たってね。「突き出た人とそうでない人はどう違うの?」って聞かれた場合どうしたらいいの?ってことなの。
P なるほどね。
M そういう問題が起きる。そっちのが遙かに問題。
P 確かにあんまり変わらないかも。
M 見た目としては変わらないんじゃないんですか、自分では解ってるけど、説明するのは難しいじゃん。悩んでるわけじゃないけどね。どうなの?困ったこととかないのかね?
P (沈黙)
M 困ることはないんだな?
P 確かに困るかも。いや困ってるかも。「この人が好きなのになあ」って思ってても実際どうしていいか解らない。曖昧なんだもん。
M おいらは人を殆ど好きにならない。逆に言うと殆どみんな好き。だけど人生の中で「付き合いたい」と思うことは殆どない。
P じゃあその「付き合いたい」って思う人と他の人はどう違うんですか?
M (苦笑)だからそれが聞きたいんだよ。
P (沈黙)
M おいらは極論的な物言いが好きなのね。自分の気持ちと裏腹であっても面白ければ言ってしまう処があるんだけど、そういう物言いで言うなれば「彼氏彼女と言わないと関係性が保てない関係」って言ってるんだけど(笑)つまり友達としてカテゴライズしていると逢わなくなってしまう奴と付き合ってるんじゃねえか、って言ってるんだけどね。
P (笑)なるほどね。極論だな。其れ極論だよ。
M しかしそう言った猜疑心を持ったことがありますよ。ことによるとそうなんじゃねえか、って思ったら、背筋がぞっとした。そういう疑問がわき起こった時期がありましたね。今は解らないけど。趣味が合うとか、友達とか、会社の同僚、クラスメイトとかそういう関係性が言葉として明確化できないから、そういう言い訳してるんじゃないかって。話も合わない。そういう恋人という無理に作った関係性を持たないと一緒にいられないから、そう呼称してるんじゃないか、って思った時期があった。でも好きで逢いたいから、弁解なんじゃないかって(笑)
P 同じ職場の人だったら付き合わなかったってこと?
M 確かにそうは思いたくない。でもそう言った方がすっきりするなってさ。心情的にはやだけど。
P わたしもそんな感じの極論を出して解決することがある(笑)。
M そもそも付き合う、付き合わないの基準が解らない。「こいつは俺の彼女だから、手を出すなよ」という指し示しなの?手出されても「てめえ!」とは言いづらいだろうになあ・・・解らないけどな。“恋愛の達人”じゃないのでね。
P “恋愛の達人”ほど信用できないものはないよ。
M 「恋愛の経験が豊富って事はそれだけ失敗してるってことだからね。」って誰かが言ってたな。
P 成功例を沢山持ってるってのは矛盾ですもんね。
M 数多しくじるから成功例も持ってるわけでね。初恋で生涯添い遂げるのが、一番の達人な気がするけども。
P そっか初恋相手と結婚した人が達人ですよ。
M しかも添い遂げる直前に言うのなら信憑性があるかもしれない。話が恋愛になってしまったけど、これは人間関係全体に云えることでね。
P 私は「好きだなあ」と思った人に自分ではその添い遂げるプランは解らないけども、絶対に相手に信号を送ってるはずだから、受け取って好きになってくれた人が“スペシャル”なんだ。
M その微々たる突き出しを感じ取ってくれた人って事ね。
P そこで問題なのが、日記にも散々書いてるけども、付き合う気とか何にもなくても、相手に彼女がいようがいまいが、関係なく信号は送ってしまっているみたいなんですね。自分でも気がつかない内にね。相手が彼女が居るのは解ってるんだから。でもそれを勝手に向こうが受け取っちゃって、こっちに返してきた時に私は拒まないわけじゃないですか。受け取っちゃうわけじゃないですか。
M どうして拒まないの?付き合いたいとか思ってないんでしょ?
P でもだって・・・気持ちが動いちゃう。
M 嬉しいの?
P 嬉しいのかも知れない。「気づいてくれた」とか思って。微々たる信号に気がついてくれたんだあって
M 微々たるじゃないんだろうな。凄いんだよ、たぶん。「そこまでだったら行きましょうか」って感じなんじゃないの?男は。
P 私は厭なの。
M 厭だって言ったって、投げ返してきたモノに対して拒まないんだから厭じゃないジャン。
P でも・・・
M よく判るんだけど、おいらもそういう処あるから解るんだけど、間違ってるよ。それはさ。
P 結論を言わないでくださいよ。
M 間違ってるけども、おいらは良いと思う。
P 私は駄目だと思う。
M 人間らしくて良いよ。
P 人間らしくたって、自分が傷ついていたら其れは駄目なんですよ。
M 生きてるって感じするジャン。
P 駄目ですよ。私は傷つく方法で生きてる実感を掴みたくない。
M でも痛みだろ。基本的には痛みが“生きてる実感”を感じさせてくれるよ。
P 確かに私はMだから、結局傷ついてる時に一番生きてる実感を感じてるかもしれない。
M そうだと思うよ。
P だから「こんなに私傷ついてる。苦しんでる。可愛そう。」ってのも日記に書いてる。単なる悲劇のヒロイン願望でしかなくて、そうでしか自己を確立できないのかな、って恐ろしくなります。自分で自分をどんどん貶めていってるんだもの。
M おいらは自分勝手に生きようと思ってるからね。何がこうだからとか、誰がこう言ったからとかそういう生き方は辞めようと思ってる。だから「痲酔ちゃんが居ないと明日日が昇りませんよ」という人がちょっと居るだけでいい。主体性を持とうと。だけど主体性ばかりを求めて、現代に受け入れられないのも困るけどもね(笑)
P どうして程良くって出来ないのだろう?
M バランス感覚が問われてるんだろうな。
P それが優れてる人が器用に生きれるってことかな?
M たぶんいないんじゃない。ことによると成功している人は出来てるのかな
P あと本書いてる人。「莫迦の壁」とか「生きるヒント」とか。
M 欲望の少なそうな人とかもそうじゃない?
P 綺麗に生きれそう。
M (パルテノンナコは)欲が多そうだもんね。全部巧く行かないと厭だって感じがする。
P 完璧主義なんだと思う。完璧になんてなれないのに。一個でも巧く行かなくなると凄い凹む。
M おいらもだね。おいらなんか(パルテノンナコと違って)完璧主義に見られないから最悪だよ。
P ホントに?割と近いものを感じるかも。
M 人生の目的は“生きること”だもん
P そうかもしれない。
M でもタリネエなんだよな。それだけじゃ足りないんだよ。生きることだけじゃね。
P わたしも昔そう思った。それだけじゃわたしの辿り着きたいものにはたどり着けない。
M 根っこは“生きる”でいいんだけども、枝葉が必要なんだよね。最近は生きなくちゃなあって思うよね。
P “生きる”ってことが楽しくなるのは未だ先かも知れない。今は生きると言うことだけで精一杯でね。楽しいから生きるって“生きる”が後付になればいいなってね。
M そこまではおいらも行ってないな。
P そうか。
M 希にいるよね。そういう人って。
P だから生きるを目的にしていてはいつまでたっても生きる目標は見付けられないなってね。生きることが目的な時点でそれでお皿いっぱいになっちゃってるから、其れ以外のものが入らない。

冒頭に書いたがパルテノンナコはがむしゃらである。私見だが、「がむしゃら」というのは若年期にのみ許された姿勢であろう。つまり良く言えば無邪気であり、悪く言えば稚拙な心意気であると云える。年齢を重ねるにつれ、“がむしゃら”は周囲から容認されなくなるだろうし、本人の体力や精神力にも支障を来す。反面“憧れ”でもある。年齢を経て、様々な熟練度が増していく一方でどうしてもあの若かりし日の“がむしゃらさ”を維持したいと考える。落語「明烏」の中で太助が言うのには
「親は大変だ。世の中に親ぐらい損なモノは居ない。俺は生涯倅で暮らそうと思ってんだ。子供が出来たら、そいつを親にして・・・」
らしい。ちげえねえ。確かに・・・そうは言っても子供も大変だ。社会の中心は大人であるから、大人社会の中で子供は子供なりに暮らしにくい。昨今年齢に関係なく、大人にならない成人は多い。ならなくったって別段問題はない・・・いや現在のところは問題はなさそうである。そんな社会で大人になるメリットは一体何処にあるのか?しかし前述の通り、大人社会に対する子供というポジションは不快なのであるから、やはり大人になろうとする手合いは多い。その無理というか、大人にならなければならない、と考えることによる更なる不快が葛藤となる。大人になり、何でも解ったような、知った振りをした方が明らかに損であって、子供として「何故どうして?」を繰り返した方が楽なはずであるのに、大人になることを望むのは一体何なのかね?様々な職業を持つパルテノンナコは女優さんでもある。舞台女優である。彼女の最近の出演公演を見ると、決まって綺麗で淡々と社会に触れ、みんなの憧れの的であるといった役柄が殊の外多い。実際の彼女は舞台の役柄とは裏腹に慌てふためきがむしゃらである。しかし、そんな“彼女”がそんな“役柄”をもこなす。もちろん両者に共通点は見いだせる。役柄の彼女と本来の彼女は互いに頑固だ。己の“幸せ”のためには手段を選ばない。その“幸せ”という一見漠然としていそうなジャンルに確固たるヴィジョンがあり、アドリブ的に処理し、幸せを獲得している。しかし幸せを勝ち得た後の副作用というかデメリットには意識を置かない。それ故悩む。デメリットを意識しなければしないほど、その大きさに後々になって押しつぶされる。何も背負っては居ないのに、己の精神が重圧に耐えられない様子だ。とても人間臭い。一見するとそれは“欲深さ”からわき出るモノのようだが、確かに否定は出来ない。だが、欲深さよりも業深さ故、己のバランス維持の為の罪悪感にも見えてくる。綺麗で淡々と社会に接している自己基準を持った女性という役柄を演じているパルテノンナコから“人間臭さ”がわき出てくるのである。スマートに生きてる様に見える人間の、それ故わき出る苦悩はそこはかとなく人間くさい。綺麗な大人の女性を演じていても、其処にはしっかりと無邪気な乙女が立っていて、儚くも見える。
パルテノンナコはがむしゃらである。良きにつけ悪しきにつけ。

蟲籠について→http://d.hatena.ne.jp/virusdust/20040319

蟲ポオタル→http://www.virusdust.net/