蟲対談「蟲籠」第十一回 にら

収録日 2004年11月9日 ( 川崎大師  http://www.kawasakidaishi.com/ )

数年前、現在蟲メンバーの加納おりえがサイト上で「オリ姉」というHNで活動していた頃、徒弟制度を行っていた。とはいうものの「師弟の契り」を交わすだけで、型を伝達するものではなかった。その制度、システムを始めたのは当時宮崎県で高校生だったこれまた蟲メンバーのあさまさんそう(元北京)。彼がオリ姉の弟子入りを志願したことに端を発している。私は弟子ではなかったが、常連客が被っていた為に交流が始まり、その弟子の中に万里氏も居たし、にらさんも居た。にらさんとても興味をそそられたのは、これまた当時あさまさんそうが主催するリレー小説での執筆である。その筆圧の凄まじさにすっかり虜となった。それから数年を経て、いよいよ二人でガチンコの初遭遇。期待の通り、内容は蟲に始まり、ネットまで凄まじくなった。

痲酔(以下M) いつも五月蠅いところで収録しているので、今日は厳かでいいなあ
にら(以下N) ああ喫茶店とかでね。
M タマキチと対談した時なんて、横に電車が走っていて聞こえなかった。
N そこで捏造なんだね。記憶の。
M テープから起こすのが大変で、不慣れなもので。音声ベースで流すわけじゃないのでね。

(沈黙)

M こういう感じで話すことがなくなってしまう(笑)駅からここ(川崎大師)に来るまでの間のが盛り上がっていた。
N 歩きながら収録ってのはどお?
M 悪くないですね。(沈黙)「ええ、川崎大師に来ておりますが・・・」とか言いたくなってしまう。
N (笑)自然にやろうとすると「あれしゃべろう」「これしゃべろう」って考えて来ちゃいけないんでしょ?
M いや考えてきても、実際喋ると吹っ飛んじゃいますから(笑)。蟲辞典はどおですか?
N あれ(蟲辞典)はビジターの人が「あれどういう意味ですか?」って聞いてくれれば、我々(蟲)は楽。そうは言っても入りにくいよね。
M WIKIをやってる人を見ると色々幅広いですよね。
N 使い勝手が色々あるの。思ったよりも難しくない。PHP弄るのは激難だけどね。
M 結局加納さんとにらさんに頼っているところがありますよね。万里くんとか文章上手な人に絡んで頂けるといいなあ。あとふるる氏みたいにPHPに詳しい人とか。
N あたしは「やらなくちゃ」ってのはまるでないからね。今のまんまでもいいんだけど、展開がね。
M 面白くない?
N 広がらないからね。
M そこら辺が(蟲辞典が)盛り上がりに欠けている所以かなあ。
N ねえ。
M 「どんどん横に拡げてこうかなあ」とは常々思ってるんですよね。
N 「みんなでやらなくちゃ」じゃなくて、(蟲に)来た人が好きなところで盛り上がる感じでいないとね。
M 今主要コンテンツがないし・・・この対談も良くないのかなとは思いますね。
N どういうところが?
M 私が一人でみんなに会いに行ってるから、輪が生まれにくいかなと。
N でもさ。バトルロイアル状態になったら、収集つかないでしょ?終わるまではさ。
M と思っているんですけどね。
N しょうがないと思うよ。
M まあ「バトルロイアル状態は厭だ」って、思ったんですよね。ありきたりで。それはそれでいいんだけど、逆行ってやろうかなって。
N うん。蟲のいいところは枯れてるところなんだよね。あんまり活気があるとさ。居づらい。
M 暑苦しいですよね(笑)。どんどんどんどんきめ細やかくないミクロになりたいですよ。
N ネットだからね。所詮。
M 色んな考え方があると思うんですけど、ネットだから兵隊のように・・・言葉は悪いけどね(笑)・・・兵隊のように集めて戦争するというやり方もあろうと思いますし、選りすぐりの精鋭部隊で格闘ゲームよろしくな活動をするってのも手でしょうな。
N うん。
M まあ(蟲も)精鋭ですけどね。一般的な精鋭の基準とは違うかもしれないけどもね。解らないのですけど、蟲以外の人と交流がないので実際は解らないんですけど、どんなもんでしょうね?
N 私の場合は同じハンドルのにらという男が居るんだけど、彼は家が遠いからリアルではなかなか逢えないんだけどね。で彼のサイトの常連とも繋がりが生まれる。でも段々(関係が)外に行くに従って付き合いは薄く成るじゃない。薄くなってる自分もいやだからね。ある程度のとこで広がるのをやめとこうかなと思ってる。
M 難しいところですよね。加納先生なんかは観てる感じでは広いですよね。濃いかどうかは解らないけど。濃いところも薄いところがあるからいいってことなのか、否かってのが解らないんですよね。まあある程度の濃さは有ると思うけど比較がないからな。
N 一人の人が有る一定の濃さで拡げていったら、それは気持ち悪いと思いますよ。
M ですよね。
N 薄くなってる自分がやだなって思ったら、そこはもう、脳が保って居られる範囲で止める。あたしは今はその考え。
M ああ
N 何が厭かって、一見さんが書き込んでくれて、お互い知らないから、上っ面滑っているような会話になってしまう。向こうが居心地が悪くって、いなくなった時の空しさ
M それはあるね。愛想良くして、居なくなったら虚無感が残りますよね。
N 自分のサイトでやるならまだしもね。そういう部分でみんなネットに飽きちゃうのかなあって思う。
M そうでしょうな。それはあるでしょうね。難しいけど、結局人間の関係だから歯車が合う合わないはあるでしょうからねとは思いますけどね。
N 面と向かって遭ってないから、とりあえず誰とでも、ほら、自分の中で区切り線なく遭ってしまうわけでしょ?でも相性まで解らないままで遭ってしまうから、
M 割とそういう傾向が強いと思うんですよね。「遭って違った」ってなることが多い。で、「やりたくない」ってなる傾向は強いでしょうな。
N あたし最初痲酔さんは「マッドサイエンティストみたいな人」を想像してたんだけど、それは勝手な話なのよね。サイトデザインや文章で勝手に作った人物像でしかなくてね。北京(現あさまさんそう)とそう話したりしてたの。
M うん。
N でも期待が裏切られて「面白い」ってなったの。あん時はね。オフ会とか初めて参加するような時代だったから、「ああこれが面白さなんだ」って(思って)あたしはそれが良かったんだけど、相手に期待が大きいとそれはダメになるんだね。
M 「ダメになる」人は多いんじゃないでしょうかね?求めてる基準が違うんでしょうけど・・・
N 人に何を期待しているんだろうな。
M ねえ。本能的には期待感ある・・・いや、ねえなあ。
N お友達を作るとか、彼氏彼女を見付けるとか、そういう下心を持ってしまう人がそうなってしまうのかなあ・・・
M でしょうかね。
N だとすると、取りあえずサイトに来た人は全てウエルカムで、その場だけ合わせといて、まずったら・・・ほらネットなんだからいいわけじゃん。でも割り切りが出来ないで、オフがあるとひっくり返るのかしら?
M う〜ん。そういう意味で言えば期待させるなんて出来る作業でしょうからね。
N 嘘ついちゃえばね。
M いや嘘ついちゃうっていうわけじゃなくてね。何となく「いいこと」言っちゃうわけですよ。知らない同志だし。人間なんてね。そもそもその人個人が言っている事がその人個人を示していないなんて場合も多いから。嘘じゃなくて、思っている理想みたいな事をね。
N 実像と虚像は誰しもあるよね。誰しもあるわけなんだけど、虚像を全面に押し出して、それに相手が乗ってこないと叩く、切れる人が多いのね。
M 多いですよね。
N そういう人生劇場は面白い。
M 逆にそういう見方で観ると良い悪いではなく、その人が見えてくるとは思うんですけど。
N だからね。最近プロファイリングが当たるように成ってきましたよ。
M なるほど。でしょうね。
N 最近嵐にあってる知り合いが居て、その犯人が分かってしまったのね。文体がまるで一緒なの。隠しようがないの。
M へえ面白いですね。
N (犯人は)劣等感の塊なのね。でもね。字面だけ読んだら別に普通のやりとりなのにね。(知り合いが犯人の)逆鱗に触れていたみたい。
M 怒られたんですか?
N 一応サイト上は普通にレスしてるんだけど・・・カラマンボウなんだよね。(犯人は)観られているの気が付いているみたいなのね。
M まあそうでしょうね。
N でね。人の書込改竄したりしてるの。「管理人が書き換えました」みたいなことも出しちゃってるの。だから可笑しくてね。わけ解らないから面白い。
M それらは正当化だったりするんだろうけど・・・人間て面白いなあ。
N 普段普通に暮らしていたら、そんな目には遭わないでしょ?
M 合わないですね。
N だから面白くて。さっき痲酔さんを駅で待ってる時も。「この人が痲酔さんだったらどうしよう」とか「こんな格好してきたらおかしい」とか、色々考えながら、観てると面白い。ってことはそう思ってるって事は私は痲酔さんに期待してるんだよね。こんな服装して欲しいとか、おばちゃんになって現れて欲しいとか。
M つまりあれですね。「注目された時に何をするか?」ってことですよね。そういう意味では誰かから「いいですね」って言われた時にかっこつけちゃうんだ。
N その時にまた作りたかったんですよね。虚像を。
M 観ようによっては可愛らしい。その人個人はね。でもその人個人が「可愛らしい」ことに厭な意味で気が付いてないのは勿体ないですよね。
N 同じことするにしても、「やりよう」とか、「言いよう」とかがあるでしょって、思うね。
M 割とその人個人のパーソナリティに委ねられている部分が強いんでしょうけど、「言葉の返し方」であるとか、で「充分面白くなる」というか、大丈夫になりますよね?
N うん。その大丈夫な部分が声色だったり、顔だったりするから、できないネットは逆に気を付けなくちゃいけないのよね。
M 難しいですよ。おいらなんか、書いてるもの自体が「思いついた事」をバンバン出してくカオス状態のものだから、メールで込み入った話をするとまず誤解されますね。
N (笑)
M 何を言いたかったのか、わかんなくなってしまう。まあ誤解っていうよりも、お互いに探ってるんですよね。
N なるほど。
M ネットだとどの辺まで相手の領域に踏みこんでも大丈夫なのか、分かんなくなってしまうでしょうから、探ってる。おいらの文章は解りにくいから、(そのまま受け取られたら)コミュニケーションは絶望的ですよね。
N オリ姉なんかは何層もある人だからね。勿論良い意味でね。
M まあ悪い面もあるでしょうけども。
N うん。だから日記読んでると、色々変わって楽しいよ。
M 最近加納先生は乗ってる感じですよね。内容は別として密度の濃い文章を書いてますよね。
N 公私ともに乗ってるんじゃないですか?解らないけど。
M 私も会ってないから解らないですけど。エネルギーに満ち満ちているなあって・・・余談ですけど
N 昔の黒い時とイメージ全然違うよね。どっちも好きなんだけど。
M あの頃はキャッチではあったかもしれないけど、奥行きがあって今の方が痲酔流の言い方すると“気持ち悪くて”いいんじゃないですかって感じ(笑)
N (爆笑)解る解る。靴の中に石が入ってるのね。中にホントに入っていたら痛いんだけど、踏んでるだけだから痛くなくてなんだか“気持ち悪い”。それをゴロゴロ転がしたりね。そんなことやってると気持ちいいなとかになるんだよね。今の痲酔さんが言った気持ち悪さとは違うかもしれないけど、ジャリジャリゴリゴリやってるのが気持ちいい。
M 以前からあんな感じが「いいんじゃないですかね?」って思ってたから、「いいんじゃないの?」とは思ってますよ。管理人としては。最近みんな日記に飽きてきてますよね。
N あるね。私に関して言うと、書くんだけど、アップするところまで行かないのね。飽きちゃって。これはヤメーってなる。書きかけでアップしたりとか・・・それを直すってこともしなくなってる。
M そういう感じしますね。以前よりも良い言い方すると「ドギュメンタリータッチ」になっていて、悪く言うと「雑になっている」感じがしますね。にらさんは。悪いことだとは思わないけど。
N だって悪いことしてるわけじゃないじゃん(笑)
M ドギュメントが見えて良いと思います。
N 言い訳がましいんだけど、家族構成にも原因があってね。子供が外に出ていくようになってきたら、つられて自分も出ていく。当然色んな人に遭ったりすると、なかなか内に籠もらないんだよね。
M ストイックじゃなくなりますよね。
N 子供が大きくなって、勝手に学校行って帰ってくるようになると、自分の時間が出来て、また変わるのかもしれない。変わらないかもしれない。
M 年齢的なものとか、状況、環境によって変化が生まれますよね。だから、ずっと書き続けるってのは面白い。何故私が蟲以外の処にあんまり出ていかないかというとね。ここには私自身がずっと読み続けてきた読み物があるんですよ。その変化を楽しめるぐらい読んでるわけですよ。何年越しで状況がめまぐるしく変化してくる中で読めてるわけだからね。その場その場で自分の思ってることを書き連ねているわけですよ。長く読まないとダメだという考えが強いんです。パっとこの人なんか面白そうだなって時だけ読むのではなくて、何年か読むと。その書き手の癖というか独特のフレーズってのがあって、それらを読む側も蟲辞典みたいに蓄積していくという下地が出来た上で読み続けると見えてくるもんだろうなと。なんとなく。文中リンクが脳内に出来てきた上でのね。
N あたしはね親戚のおばちゃん気分でね。「あの子はあの時こうだった」とか、ウオッチしています。日記だからね。一日二日読んでも解らないもの。小説じゃないからね。読まないと面白くない。
M とっかかりは色々あるだろうし、まあそれはいいんだけど、継続は重要ですよね。素人の文章だし・・・いやネットがこう普及する前は私を含めた一般と言われる人は作家とか専門家の文章しか読んでこなかったでしょ?ネットが出来てボーダレスになったってのは画期的ですよね。
N 「他人の日記を読む」って行為は面白い。
M 一寸前からすると異様な状況ですよね。
N 覗き見だよね。
M その覗き見が若干かもしれないけど、「覗き見てくれ」と言っているものなんでね。
N 「読んで良いよ」ってテーブルに開いてある日記だから。
M で、人目はばからず読む。数年前では有り得ないことだった。
N アウトローの行為だよね。
M そうですね。しかも以前なら『又聞き』『噂話』としてしか、他人のドギュメンタリーは伝わってこなかった。本人から、しかも文章に起こされてってのは画期的。「世の中の人がこれだけ文章書けるって凄い国だな日本!」って思えるし。以前は文章って凄い狭い分野だったんだなって気づかされた。
N 『明治の書簡』とか読んでも、口語じゃないし、庶民は今ほど字が読めなかった。電話が導入ってきても、その頃庶民がどれくらい濃い遣り取りしてたか・・・今は携帯が普及して、携帯メールとかでバンバン内面の吐露とかしてるじゃないですか。平均的な国語能力は今最高潮なんじゃないかな。
M 思いますね。だから当然日本語はどんどんどんどんアレンジが始まり、よく言えば進化してる。元々の形式的な日本語は崩壊して、生きた日本語化していってるでしょう。
N 素人の日記は基本的に校正が入らない。だけど、どんどんどんどん成長の過程が観れる。
M あれは間違いなく進化ですよね。
N 『2ch語』ってあるじゃないですか。凄いなって想う。あれだけのサイトにあれだけの人が関わっての情報伝達があるから起こる現象なんだけど。あういう風に蟲語も発展していく可能性だけはある。本来の意味から派生していってね。蟲は「みんなで」っていうあついモノはないんですけど、なんか砂場でね、大人が夜な夜な集まって意味なく大きな砂山を作って。朝になってみんな居なくなったあと、子供が見つけて「なんだこれすげえ!」って。それを蟲の人でコソコソ観ていてクスクス笑うようなことがしたいよ。
M 正にそうですね。実際出来なくてもいいんだけど、「こうありたい」って思いたいですね。こうやってね。蟲各個人会いに行くと面白いんですよ。
N (爆)面白くなかったら、会いに行かないでしょう。遭わない時は面白くなかったの?
M まあ居ますよね。この人の日記あんまりなって言う人も居ましたよ。ぶっちゃけ。「大勢で遭ってる時はあんまり」って人も居た。でもね。一対一で遭うと面白い。ギャップを楽しんでるってことなんでしょうね。さっきにらさんが言ったようにね。おいらなんか遭う人遭う人にギャップを与えてしまうから、ギャップとの戦いですよね。だからかもしれないけど他人のギャップに対してとても喜ぶのかなあとは思いますね。
N 見た目のまんまじゃつまらないしね。ギャップで思い出したんだけど、内の夫はね。可愛い系の顔なのね。
M お会いしたこと有りますよ。
N ああそうか。本人はね、顔はともかく身も蓋もない人なの。で付き合ってる頃、2人で歩いてたら、急にその辺の鳩をガバッと捕まえて、Gジャンのポケットにサッと入れちゃうの。胸をモコモコさせたままにしていて、その辺に子供とか発見するとガバッて鳩を出すの。そう言うことが大好きな人でね。そのギャップが凄かったの。
M 凄いですね。
N ギャップに惚れてしまったんだと思うんだけどね。そのインパクトをずっと保てる訳じゃないから。
M ギャップがあるって事は奥行きがあるってことでしょう。浅はかでない。
N だいたいが奥行きがあるってのは誉め言葉だけど、浅はかはそうじゃないもんね。
M 浅はかで単純な方が楽ではあるでしょうけど。
N 本人にとっても、周りにとっても解りやすいから。
M 北京(現あさまさんそう)とね。ある日何処かで遭った時に(あさまさんそうが)モヒカンで革ジャンで着メロが君が代で、着画面が日の丸なわけですよ。サングラスかけて
N あー、カマキリの複眼みたいな奴。
M そう。で、チャリンコ乗っててね。お互い遭うなり「ヨーグルト瓶の蓋」についてとかくだらない話しかしない。「やっぱビートルズは嫌いだ」とか言った方がかっこいいですよね。とかそんな話しかしない。
N (爆笑)面白い。
M そういうことなんですよ。そう言ったギャップを楽しんでいる人がおいらは好きだし、楽しめてないじょにいみたいな奴は・・・じょにいもね。リーゼントだからその辺歩いていたら怖いわけですよ。顔は可愛いお兄ちゃんですけどね。まあかっこええわけですよ。目立つし。だけど、本当はすげえナイーブだし。
N どうなんだろう。そういうのってギャップを作ろうとしてるんだろうか?
M 変身願望もあるんじゃないかと思いますよ。私しかり北京しかり。
N あたしもアフロにしてみたいと思ってるの。
M ええ。
N それはね。アフロにしたら「みんながひくかな」とか「かっこいいかな」とか思ってるんじゃなくて。フカフカ感を心ゆくまで味わったりしてみたいわけですよ。でもそれって実験的なことでしょ?
M そうですよね。
N アフロの時遭った人が、凄いギャップの人を狙ってるんだって思っちゃうじゃないですか。それはあたしにとって不本意なんです。でもそこに「やらない」言い訳を求めているのかもしれない。
M なるほど。
N 結局無難な線に落ち着いちゃうのはその辺なのかなあ。
M う〜ん。
N ギャップが有りすぎるってのもなんだかなあ・・・狙ってギャップを産み出している人って居るのかなあ・・・・
M なんにもしなくても、ギャップが生まれるから、手を変え品を変えって対処していったら自然とそうなったんじゃないですかね?私はそんな感じですよ。童顔ですからね。童顔の割に発言が突飛だから、「くそがきのくせに」ってガキの頃から今でも言われてますね。じゃあそうリアクションされるなら、最初から変人ぽくしちゃえ!みたいな。
N ちょっと尾崎チックだね。
M そうですよね。生産的な考え方ですよね、今思うと。「決めつけられた枠組みからの脱皮」というか「自由」を求めてたんでしょうね。尾崎豊さんを聞いた時に自分が少し恥ずかしかったですね。
N あたしは恥ずかしいから苦手なんです。
M 解りますね。
N 槇原とかも苦手なの。理由については容易に想像して貰えると思うんだけど。
M 槇原さんの今の唄は凄いですよ。逆わらしべ長者みたいな唄なんですけど。それと「平井堅」って言われるだけで笑みがこぼれますよ。「先入観」という意味ではコスプレもいいなって思いますよ。見た目と中身のギャップって意味では。
N OLやってた頃。OLさんって普通スーツ着てるもんだと思ってたんですよ。会社入ったら、意外とそうでもなくて、そこで解らなくなってしまった。ジーパン、Tシャツの人もいれば、びしっとの人も居て、分かんなくなって、毎日コスプレ状態になったの。
M うん。ほほお・・・
N コスプレしようとかそういうのはなかったんだけど、今考えるとコスプレなの。「今日はこんな感じ」とか・・・
M うんうんうん。
N そう(コスプレと決めないと)しないと分かんないのね。それで、毎日“それ”だと、面白くなって来ちゃう。
M 始まりましたね。
N 民族衣装とか莫迦な服とか集め始めて、どこに着てくの的な。でも楽しいんで、コレクターになっていく。すると、会社には着ていけない服ばかりになってくるの。アラブ服とかね。でも着るために買ってるんだから着たいじゃないですか。今はいいよなあって。コスプレのイベントとかあって。私は行きませんけど。
M なるほどね。
N 日常とかけ離れた服が今凄い有るジャン。それらを着ていく場所があるってのはいいなあって。
M あれは凄い。何でも日本人は文化にしちゃうからね。着ていく場所がある。逆に着ていく為に買う。ってのは解るんですけど、其れ以上にはなってないですよね。
N もうちょっとラテン的な雰囲気になると学校に着ていく人も増えていくんじゃないかなあ。
M 日本人はなかなかそこまでいかない。
N TPOを守っちゃうからね。
M 例えば自分の子供に「悪魔」って名前を付ける人は居ても「腸捻転」とか「ガン細胞」とかまでは付ける人はいないって以前立川談志師匠が本で書いていたけど、そこまでは行かない。
N そうだね。
M マイナス的ですけどね。『悪魔』って言葉は。でもマイナス的だけどプラスですよね。悪かもしれないけど、マイナスではない。もっと沢山卑劣な下劣な言葉があるでしょう。でも悪魔。それは「自分の子供がのたれ死んでしまえばいい」って親はいないだろうから、当然だと言うかもしれない。だけど其れ以上ってのはホントにないのか?生活や肉体としてそれはまきおこる事だけど、思考の範囲ってのは其れ以上はないのだろうか?それは思考ではなく言葉かもしれないけど。
N うん、言葉ね。
M コスプレが行きすぎたらね。「みんな良いと言われたい」という理由ではなくて、「自分が着たいから着ている」と言うだろうけど、何処かに各人のセンスで「良いでしょ?」ってライン引きがある。その目的意識の変革があるのかなあって。
N これからじゃない。今の段階では日常と非日常を区別してやってる。ここ数年進化著しいから、これからじゃない。区別の必要性を考え始めたときに、次のステージに進むんでしょう。
M そうなった時がちと怖い。「面白い」とかでさえ、「どうだっていい」とも成りかねないわけですよね。
N 日常着を着ていても「今日は何のコスプレ?」って聞かれちゃう時代が来るのかなあって。ちょっと楽しみ。でも切ない。
M 恐怖があるんですよね。
N みんな精神的な処に向かっていってる気がするのよね。
M 「暗い」ですよね。
N 日本は女性的な時代と男性的な時代を交互に繰り返してきた歴史があって、富国強兵と昭和の間の大正は竹久夢二がいてね。平成になって解りやすい例で言うと、男子が気を遣って化粧したりね。そういう時は内面に向かっていく。その説によれば、そういう時代だそうですよ。
M なるほどね。コスプレの話を戻すと、そこまでじゃないんだから、まだいいんじゃないかと。やってる個人にとっては「汚い」と認識してやってるわけじゃない。結果「汚い」のは別として。
N でもね。「汚く」して、「みんながそっぽむくのがいい」って、面白がる人もいるでしょ?
M 実際にはいるんですけど、その人達は「目を背けさせたい」という願望のもとにやってるわけで、「汚くなりたい」という欲望ではないか。まだ目的意識をそこに感じるから理解できる。でも落語の『欠伸指南』の様に「欠伸を教えて貰う意義」ってないわけですよね。そこまでは行ってない。一応欲望で動いているってのが助かってるところなのかなあ・・・と思う。それらが崩壊したら、怖い。
N 国民服とか人民帽とかがある国では欲望はどうなってるのかね?あっちの人はアグレッシブなイメージがあるけど、ファッションで押さえ込んでいるのかしら。
M なるほど。それは面白いですね。
N 料理も凄い手の込んだものとか、こんなものまでって食材を召し上がるでしょ?リビドーだよね。抑圧・・・そっちに昇華されてるのかなあって。例えば『猫を食べない国』にいるからそう思うのかもしれないけど、他に食べるものあるのに、その辺の猫を食べようってのはね。「猫喰ってみよう」という考え方(はない)。
M 宗教上の理由で、「この食材を食べては行けません」っていうと、他の食材で代用するんだよね。例えばステーキを豆で作るとか。
N (宗教上の理由だったら)食べてるのと一緒ジャン。
M そうなんです。で、それを作り出す為に調理技術を磨くんですよ。
N 本末転倒。見た目も似せ、食感も似せて・・・その食感が解れば、「食べたことがある」ってことじゃん。まあ「技術磨く側」が食感を知ってることかもしれないけど、矛盾を感じる。ならどうして食べちゃ行けないのか解らない。けがれてるって言うけどねえ・・・
M わかんないんですよ。そう解らないんです。解らないけど、そうなるとそうしちゃうんだってことですよね。禁止されたら、何とかかいくぐるんだってこと。だけど「技術を磨くために血が流れて・・・」ってなったら、一体「けがれてる」って・・・
N そういった「戒律を決めて貰う」と「自分で決めなくていいから楽」って事かな?縛りがあった方がいいってことなのかなあ。
M 抑圧があった方がいいでしょうね。楽でしょう。
N 抑圧としての人民服だとすると・・・話が元に戻っちゃった。
M (笑)にらさんが言ったように「OLさんはこういう服」ってのがないと、自ら「有り」か「無し」か色々試して、沢山サンプリングして行かなきゃならない。でもそれって万人が出来る作業ではないわけだから、「制服があった方が楽」って局面もあるわけですよね。
N 絶対そうだよ。
M ファッションに何かを求めたりしない人にとっては苦痛でしかないすから。
N 今日はウィーン少年合唱団風とかダイアナ妃風とかテーマがあるんですよ。面白がってくれる人もいるけど、ひく人のが多いからね。
M ですよね。
N アメリカ帰りの上司がいて「君はアメリカ人みたいなファッションセンスだね」っていうんだけど、アメリカ人がどんなか知らないから、意味が分からない。でも「仮装パーティみたいだね」って方がしっくりいく。
M アメリカ人ってそうなのかなあ・・・日本人よりもアメリカ人のが嫌いなんだけど、(アメリカ人のが)面白いですよね。
N そうだね。面白いよね。日本人はある程度解ってきてるからね。
M 新鮮さがないってことなのかもしれないけど・・・日本人はどこかで「面白くなくてもいい」って思っている気がするから。
N そうだね。でも関西の方に行くと笑わせたモノ勝ちってところがあるじゃないですか?
M 最近始末に悪いなと思うのは「ギャグセンスがないのに関西人」なんですよ。そりゃ「存在する」だろうけども。おいらが「笑えない」から「笑わない」とね、「解ってない」と一蹴される。「東の野郎は」とか・・・・
N その後のコメントは面白いね。
M 「自分の吐いたコメントの面白さ」は理解してくれないんですけどね(苦笑)。まあその私の知人だけかもしれないから、概して言うのは失礼ですね。まあでも面白いことを考えようとしてるのは「良いこと」だと思います。何にも考えないよりは。関東人その手が薄い人が多い。それゆえ「面白い面」も出てくるでしょうけど。僕は天然呆けだと言われますけどね(苦笑)
N (手を出して)こうやって手だすと鳩が寄ってくるでしょ。これが好きでね。
M まあ全編それですよね。「“ふり”に対するリアクション」ですからね。アドリブですよね。
N アドリブって面白いじゃないですか。
M “きく”といわれてる人は面白い人のことですからね。本当は“きかない”人はいないんです。みんな、なんかしら対応するわけだから。
N だからウオッチは辞められない。
M 私はね。色々そのリアクションをコレクションしてるんですよ。「こう言ったら、どう返してくるかな?」って。結局(興味の範疇が)ギャップなのかなやっぱり。
N ギャップを『見る』のも、『見せる』のも余裕がないと出来ないでしょ?
M 出来ないでしょうね。
N テンパッテルからね、みんな。それだと面白くない。
M テンパッテル中でも「何とかしよう」としたら、「どういった変化がある」のかなあとは思いますね。
N 頭の中で別の方向に廻っていって、(予め)考えておかないと・・・
M 「そうしないこと」が常識的である思っている人が多い。『テンパッテルこと』と『一生懸命』なのは違うんじゃないかなって。・・・別にね。「面白くしよう」ってのは工夫(の範疇)じゃないかと。
N 『工夫』も『常識』の範囲でしょ?
M そうでしょうね。
N だったら、それは『お婆ちゃんの知恵』とかだよね。最早 『工夫』じゃない。
M 『論理』とかいらないんじゃないかなあ・・・これは弁解だな(笑)。やっぱりコミュニケーションには必要かな・・・(笑)
N 『論理』ってのはある事象がないとさ。意味がないよ。結局追っかけになってしまう。『論理』を『解釈』と言い換えればね。(結局)言い訳でしょう。置かれてる状況とかをそのまんま楽しめればそれもいいんじゃない?
M 『人間観察』っていうと、観察相手を莫迦にしているみたいですけど、そうではなくてね。・・・だけどどうして観察されたくないんですかね?だってね。ネットのサイトなんか開いてるって事は「観察してくれ」って言っているようなものなのに。
N 誰もがやってるよね。サイトウオッチ。(個人サイトやブログを見るって事は)「電車の乗り継ぎを調べる」とか、とは違うでしょ?
M ネットで「電車の乗り継ぎを調べる」というのは情報入手の為のメディアとしての役割ですからね。
N 『情報』といえば同じなのかもしれないけど、
M イヤ違うでしょ。だってそれは今現在進行形で「望んでる情報」ってわけじゃないんだから。それは観察ではない。
N みんな(サイトウオッチ)やってるでしょうし。されたくなかったら、(公開を)辞めるべきだよね。

まだまだ話は尽きないが今日はこの辺りで。
にらさんの世界観というのはかなり確立していると私は思っている。それゆえ蟲では顧問のようなポジションである。その世界観でしっかりネットで生きているからだ。蟲にはネットで生きている人は少ない。
私は彼女の本名をすら知らない。彼女は主婦である。二児の母だ。こぴょんもころぴろも可愛い。こうした世界観を確立している人が公園デビューやらを砂場でやっていると思うと日本の奥行きを感じずに入られない。
だからその井戸端での砂場に彼女はいつも事件発生を待ち望んでいるのかもしれない。それが蟲になれればそれでいいのにってことかもしれない。蟲が施した砂場でのサプライズを本当は にら は知っていて、こっそり楽しんでいるのだろう。其れを望んでいるように感じる。恐らく私はその砂場でのリアクションを感じることは出来ないが、にらにはできるのだ。そこら辺が凄い。羨ましくもあるが、その地位に存在する苦労は此方には解らないから、中途半端に憧れるのは難しくもある。
彼女はその地位と己の世界観を両立させながら、バランスを取りながら、ネットに開放している。その蜘蛛の巣に私はまんまと引っかかり、現在も観察されているのであろう。それが実に心地よく蟲の蟲たる所以なのかもしれない。
「にらネットの心地よさを蟲は今後も体現できるのか?」
今後の蟲はそこにかかっているのかもしれない・・・いや蟲に限った事じゃないかもしれない。

蟲籠について→http://d.hatena.ne.jp/virusdust/20040319

蟲ポオタル→http://www.virusdust.net/