▼江戸開府400年記念コラム「江戸ゲノム」(堕病原体処方箋 桟従蜂號昭和七銃蜂年七月貳日発行 より)

 いよいよ七月。夏ですね。暑くなって参りました。夏はイヴェント盛りだくさ
ん。今年もビーチパーティが開催されます。去年は猿島でしたが、今年は野毛海
岸。お袋の眠る三崎のほど近くでのイヴェントにお盆よろしくってなもんでござ
います。(参加希望者続々お待ちしております。)7月27日に誕生日が待って
おりますし、同20日には我が東海大学海洋学部演劇研究会OB総会に出席と大
忙し。

 自己の主観のみで此処までとだらだら生きて参りまして早30年。想い出も人
様程度にはございます。ガキの頃は“他人の目”やら“親の目”やらに支配され
ておりましたが、20代は完全に己の主観のみで判断基準を作り、選択してきま
した。それが悪いことなのか、いいことなのかは計り知れないもののそうしてき
た事実はあります。自分としては悪くない気分です。結局は何が言いたいのか?
何が書きたいのか?未だに迷っております。ハッキリと断言したりするのは、そ
の時点での己の判断を対象にしたものであって、絶対的なものではないのです。
でもおいらは自分を捜し続けるだろうし、そうしないと保てない儚い人間である
ことは認識しています。

 先日TVをみていましたら、とあるワイドショーのような番組で
「最近日本人は○○的という言葉を多用しているが、あれは自信のなさの現れで
ある」
という内容のことを言っていました。確かにそうかもしれないなあ…と感心しま
した。しかしどうでしょう。おいらはTVをあまり見る暇のない人間ですが、そ
の自信のなさを煽っているのはTVを始めとしたマスメディアなんじゃないでし
ょうかね。

 とあるおり、ある地方に仕事で行ったところ、地場産の野菜のサラダをレスト
ランで注文しました。あまりの瑞々しさに感動を覚えたおいらはその美味を表現
するのに
「喉越しがいいですね。」
と発しやした。そう表現するのがおいらの感情の表れに一番適していたからです。
しかし同行していたフリーライターさんから
「喉越しという言葉は飲料に使う言葉であって野菜に使う言葉ではない。」
と指摘を受けました。「蕎麦はどうなんだい?」と心の中で思いましたが、聞き
流すことにしました。どうせ言っても、「蕎麦はそうだが、野菜は違う。」と返
されるのが落ちですから。別にそういう論議がしたいのではなかったのです。た
だあの野菜の瑞々しさをそう表現するのが適切であっただけです。共感を求め、
成し遂げられなかっただけです。他には大意はありません。だけど、通じると思
うのです。実際一緒に食べた人間に対し、言ったことなのですから。食べてない
人になんのこっちゃわからないと言われれば、もっと詳しく説明するだけの話で
しょう。しかし彼の意義は説明不足を指摘したものではなかった。
 彼の融通のきかなさに文句言っているわけではありません。融通が利かないの
は人間生きていれば色々様々な場面においてあり得ることだと思っています。お
いらが融通利かない場面だってあります。融通利かせてばかりいるのも何だか変
な話です。主体的に生きていれば何処かで融通が利かなくなるでしょう。此処で
問題なのは何で彼が其処で融通が利かなくなったかであります。判るはずのこと
に意義を唱える。痲酔なんざあその程度の野郎だ、と思っているなら、そんな発
言はしないでしょう。その程度ではないと思われていたのかな?それも違うでし
ょうね。たぶん融通利かせたくない対象なのです。彼にとって痲酔は。

 マスメディアというのはこの出来事に近い存在ではないでしょうか?一概に言
ってはいけませんが、政治家や有名人、時には一般人を対象にあの発言はどうだ
、こうだ、と論議し、全てブランウン管に映し出す。ちょっとした発言一つ一つ
を対象にして、だから駄目だ、だから潰される、だからこうだ、だから殺される
…と言われれば不安にもなり、自信も失う。ハッキリ言って自信がないってのも
違うと思います。自信がないのではなくハッキリモノを言うことが損だと言うこ
とをTVは暴き出しているように感じられます。
 前述の「喉越しがいいですね。」だって、その符帳というか音の響きが良くて
使ったのもあるのです。「○○的」だってそれに酷似した効用があるから使って
いる人だって居るでしょう。だからといって何もおいらの知人やTVが悪いと言
っているんじゃない。おいらの知人やTVだってそれで保たれているのですから
それでいいと思うのです。それじゃあ駄目だなんてことはないです。しかもおい
らが言うことでもないです。それでも保たれているのだから何の手出しも出来な
いのです。でもそんなモノに此方は不快な思いをさせられる。法律上問題がなけ
れば、どうにもならない。おいらの発言がおいらの知人を不快にさせているかも
しれないから、それだって云えないことです。

 色々書きましたが、そんなわけでおいらはこれからも曖昧です。自己を維持し
ていくのに必死です。これからも自己基準を探し、吐き出し自己基準に真っ当に
生きていくでしょう。そうしないといられないのです。迷惑をかけることは承知
しています。申し訳ないし、何とか迷惑かけないようにはしたいです。でも己の
バランスを崩す方が何よりも迷惑をかけることになると思いますから、仕様がな
いのです。自覚しているか、してないかというのは大きな違いがあると思ってい
ます。これからもひたすらに自戒です。暗くなっているのではないのです。ただ
30年の節目に謝罪と御礼の意味を込めまして書かせていただきました。

いつもすいませんねえ。そしていつもありがとうございやす。

たまにはこんなのも如何なもんでスカイ?