▼江戸開府400年記念コラム「江戸ゲノム」(堕病原体処方箋 泗銃壱號昭和七銃蜂年蜂月銃日発行 より)


 私の生活は殆ど会話を含めたコミュニケーションによって成り立っていま
す。何も「私の生活は」と仮定しなくても、人間の社会はそうなのかも知れ
ない。しかしその生活における比率が私の知人と比較すると量として多い。
つまり大勢の皆様とお会いしてお話をさせていただく機会に恵まれているよ
うです。この事実は大変幸せなことなのかも知れないのですが、私にとって
不思議な状態に他ならないのです。なぜなら私という個人がそれほど他人に
受け入れられているとは感じられない。当然「喋り好き」がこうじた結果で
ありますから、「話し相手」を求めてはいますが、「意思伝達」というシス
テムに対しコンプレックスがあり、「相互理解」に対し諦めというか気恥ず
かしさというか、そういった気持ちを持っているのです。それもかなり幼い
頃から。
 幼少期からこれといった物欲は無かったのですが、寄席や映画館、劇場、
コンサートホールなどを遊園地やゲームセンターと同様に好んで通っていま
したし、家庭では読書が趣味。勿論TVっ子で当時あまり普及していなかっ
たヴィデオデッキが我が家にはいち早く導入されたりと環境もその要因を担
っているとは思うのですが、興味の対象は数多い子供でした。あまり子供っ
ぽい子供ではなかったかも知れません。しかし、そういった芸術芸能、書籍
などから受け取った情報や感銘をどうにかして人に話したくて仕方がなかっ
た。そういう欲望が強い子供だった覚えがあります。その興味は演者個人の
パーソナリティから、技芸、様々な思想、政治、歴史など多岐に渡るジャン
ルが対象となり、そういった知識もしくはその知識を対象とした己の考えを
大人達に披露することにより、喜ばれたり驚かれたり、を精神安定の資本と
していたのでしょう。一般的な子供が知り得ない、考えも及ばないことを大
人達に表現し、その報酬として菓子やら駄賃やらをせしめていたわけで無駄
のないガキであったのです。
 では現在はどうかというと、その「話し相手」と称う対象の変化こそあれ、
私の生活や心根に変化はない。幼少期は近所や親類縁者の大人に対し、現在
はホームレスから大学教授、主婦、会社経営者、政治家、芸術家、サラリー
マン、公務員、大学生、高校生、中学生、小学生フリーターなどなど様々な
職業の皆様と友人知人関係、仕事上の付き合いなどを築きのべつ話し相手と
しているという変化のみで何も変わらない。聞いてきたこと考えてきたこと
をのべつまくなし喋り、相手の興味の範囲を掘り下げてまた喋るだけ。しか
しそんな生活を30年続けてきた私ですが、一度たりとも「判って欲しい」
とか「判らせてやる」と思ったことがない。本能というか、その場の空気と
して、相互理解の不成立に「困ったな。めんどくせえな。」と感じたことは
あるのですが、前述の如くをそれこそ会話の全体の中で考えたことなどない
のです。するっていと、私の生活の中心であるはずのコミュニケーションは
間違いであると言えます。コミュニケーションとはただ闇雲に駄弁ってる状
態ではなく、意思伝達を基本としているのでしょう。私の勘違い…というよ
りも私の生活の中心は雑談であり、駄弁であるのかもしれません。いやもし
かしたら独言を他人に聞かせているだけなのかも知れない。いやはやどうし
てであります。別段卑屈になってるんではないのですが、コミュニケーショ
ンとは妙なものだなと感じますね。
 私は静岡県清水市三保(現静岡市清水三保)という半島で10年近く演劇
を作っていました。作っていた物が演劇であるかどうかは別として、まあ活
動してきました。しかも沢山の若者が集う其処で十年近く中心人物として携
わってきたのですから、それなりに受け入れられていたのだろうとの自負は
あります。更に私が執筆したり演出したり、勿論演技したりという作品に対
する評価は常に低かったように思い出されます。曰く「ワケワカンナイ」と
いう評価が多く、その評価者は客だけに留まらず、同志ともどもってんだか
ら始末に悪い。そういう悪名高い作品を輩出する私という表現者が10年と
いう長き歳月携われたのは何故なんでしょうか?しかも前述の如く意思伝達
を会話の基本としていない独言をのべつ喋り倒す輩なのです。
 おそらく理由の全てではないでしょうが、様々な話題についていけたから
ではないかと思うのです。はったりや時には嘘に近い内容であったとしても
、とにかく自分の言葉で自分の考えを喋り倒してきた結果が其処に結びつい
た。誰と対峙してものべつ自分であり続け、自分という興味の対象について
あらゆる角度から話すスタイルが好き嫌いは別として受け入れて貰えていた
のかも知れない。
 現在もその作業は続いております。結局色々と話すための生活を余儀なく
されている。しかしこれは誰かから強制されてやってるのではなく、その作
業を怠ると自分が保てないからやっているんです。誰かから判って貰いたい
とかそういう下心でもないのです。ひたすら己の精神衛生のためにやってい
ます。そして私は今の私が好きであるということです。とても楽しく暮らし
ているということです。それだけなのです。

 あ、あと体調不良によりご迷惑をおかけした皆様大変申し訳ございません
でした。この場をお借りして謹んでお詫び申し上げます。経過は良好です。