六月の蛇
現代社会は文明に頼っている。
街は様々に便利な科学製品に溢れ、日本に於いては餓死どころか、飢餓もない。
“暴飲暴食”の危険を訴え、駆けめぐる野山が存在しないこともあり、
ダイエットと称して、ジムで汗を流すときている。筆者が浮浪者をしていた頃、
慢性アルコール中毒を患っている仲間が地方の中堅都市にも事実存在した。
文明に対する各の解釈の集合体を文化と称するならば、文化レベルも高い。
娯楽やメディアから受ける情報も過剰なほど。この状態を筆者は爛熟と呼び、
頽廃と決めた。曰く「使い捨て」どころか、「捨てないと経済が廻らない」であり、
ならば“捨て方”に工夫を凝らすか、となっている。
そう書きながら筆者も文明の恩恵を多分に受けているどころか、
なくては暮らせぬ現代人である。残念ながら…である。
業も欲も兼ね備えた“せこい”人間だと自覚している。
それをいつしか刷り込まれた“常識”やら“民主主義”という名のルールを学習し、
“せこさ”を押さえぬと生きていけないと決め、生存を許されているのだろう。
餓死するわけでもないのに、“過労”とも言われる疲労を抱えながら、
毎日労働に精を出し、バランスを保っているのだろう。形式に心情が付いていけば、
バランスは保たれるのだろうから、“バランス維持”の為の労働であり、
生活であると云える。
その反面憧れは抱く。筆者は無二の愛煙家であるから、
煙草を買うだけの金を稼ぐ…もし何だったら煙草生産業者になって、
己の吸う煙草を捻出する手だてもある。数箱それこそ“食い扶持”として販売するのみ。
いやいや、煙草農園の一角で家畜を飼い、田畑を耕し、近所の河川から用水路を引き、
流れる水を呑み、泳ぐ魚を食す…つまり自給自足を行う。目の前にある己の“食い扶持”
確保の為の労働と、煙草という嗜好品のみを追い求める暮らしである。日々煙草を見つめ、
幸せを噛み締め、三大欲求を適当に満たすのみの生活に憧れるのである。
“せこ”な性分の筆者でも考えるのだから、多くの現代人は持っている思想であろう。
しかし、現代社会。
此だけ物質に溢れ、誘惑も多いのだから土台無理な話。
文明の恩恵を多大に受けている若者は不満が増えるし、適応能力もあるまい。
美点を掻い摘んで想像するのが関の山なのだ。
ならばせめて、業や欲を他人の迷惑のかからぬ範疇で開放させてみたいものだ。
他人には欲が少ないように見せ、己の範疇での業や欲の開放。
せこい筆者には到底無理。
開放させても、弁解する。
弁解している時点で、世間での評価を気にしているということだから、
開放に対し怯えている証拠である。
開放することは罪悪なのだろうか?
開放したいとこっちで思っていても、あっちでもしてはならぬとなっているのだろうか?
だんだん判らなくなってくる。
学習からではなく、開放に対し優劣を付けたがっている様に見えるのは何故だろう。
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