10話

筆者を含め“凡人”という手合いは
おそらく曖昧でぼんやりした日常を過ごしているのだろう。
一部の才人から見ればそれは勿体ないお化けの登場を願うほど
無駄な時間の浪費ととられてしまう。
しかしどうだろう。
凡人の極有り触れた日常。
安定を望む、大変でない生活というのは其処まで単純なものであろうか?
安定や安心などそう簡単に手に入れることは実はできやしない。

日々の細かい事の積み重ねが多大に影響しあい成り立っている共云える。

さて10話。
極有り触れた日常の中、
極有り触れた“ドライブ”内での会話を中心とした構成で
できあがっている本作、しかしまるで安定はない。
日々の積み重ねのちょっとした歯車の掛け違いによって
人は不安定さを露出してしまう。
じゃあ刺激的であるかというと、本人はまるで自覚がない。
恐らくは三者三様、十人十色様々なライフが存在するはずであり、
積み重ね方も育み方もまるで違う。

実際に極有り触れているであろう日常など存在はしない。

ということが解る。

時には自分の不安定さを相手のそれと
比較し、検証し、優劣をつけ、推し量るというせこい作業も人間はする。
その一瞬の安堵を糧に明くる日のお天道様を拝むのだが、
その思考こそが引き金となり、不安定さを露出し、
幸か不幸かは己の心情の問題だから、不幸などと決めてかかる。
人によっては

「あたしは何も悪いことしてないのに…」

となる。デモ違うんだね。論理的、西欧的説明は出来なくとも、
物事に結果がある以上原因は存在するのだ。
しかも外敵要因という類があって

「運が悪かったんだ」

と決めても、それすら一瞬の安堵に過ぎず、更なる失敗の引き金と成りかねない。
はい上がるにはまた努力が必要でとなると、これはこれは安定など先のまた先ですよ。
たぶん安定とは欲が少ないことを言うのかも知れない。
欲が少ない奴なんて居ないと思うが、「少なく見える」と言い換えても良い。
欲が少なく業が浅い手合いは安定はするだろうね。
発展性はなくとも、不安定ではなくなる。
だからそちらのが遙かに健康的で優雅であるともいえる。

これは難しい。

欲を少なく業深き己を自戒するなんざあ、
それこそあくせくしなくてはならず、

「極有り触れた日常」

からの脱却と云えるかなあ・・・残念ながらであろう。
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