フリーダ

フリーダ DTS特別版 [DVD]
場内は満員であった。

年間50回ほど映画館に足を運ぶ筆者ではあるが、
最前列一番左の席に着いたのは記憶にない。
隣に陣取るのは若いアベック。上映前にお喋りをしてる。

「あたし泣くかも知れないからハンカチを胸のポケットに入れておこう。」
「おれは大丈夫だ。」

なんて会話を盗み聞きするはめとなり、ちょっとほっとした気分になった。
筆者最近とても涙もろい。
若いアベックの隣で30の男が涙するのは気持ちのいいものではないように思う。
まあ知ったことではないが…

本編が始まると当たり前な会話をしていたアベックとは
まるで違う独りの女性を巡るラブストーリーがスクリーンに映し出された。
ストーリーは壮絶で、
とても退屈な日常に埋没する筆者が何か語ることなど許されない。
せこい筆者の瞳には「凄い」と映ったとそういうわけであろう。
先ほど「ほっと」してくれたアベックの会話とはまるで違う。

筆者、涙腺の緩みをじっと耐えた。
他でもなく「ほっと」に対する配慮だが、
スクリーンの女性の人生を綴った作品の
嵐のような、波のような、つまり波状攻撃に身をこにして堪え忍んで居たのだ。
己を恥ずかしくも思った。

「しょうがないよ」

といえばそうと諦めることもできる。そりゃそうだ。しょうがない。
彼女も、フリーダだって選んだ人生じゃない。

人間おそらく人生なんぞ選べない。
だがその運命に対するリアクションは学習により変化を産むことは出来るだろう。
持って生まれた姿形から性格まで学習や鍛錬によって
大なり小なり修正を加えることは可能であるのと同じだ。
己の基準に従って選択するのが人生なんだろうから当然である。

筆者は本作鑑賞にて、己のせこさを感じた。
己の基準の中では主人公の人生は波乱に富み、
太刀打ちできる代物ではないと判断したのだろうね。
つまりヒロインの人生を良い…いやいや凄いとしたのである。
だが同じ人間であるにも関わらず、
もう一方で隣り合わせたカップルに精神的安定を得られたという判断も存在している。
おそらくは尊敬や羨望からほっとさせられたりはしないだろうに、
そのカップルの日常的な会話に救われた己も存在したのだ。

これいったいなんなのだろう?

“良い”だの“凄い”だのを対象に求道しているかの如く基準のもと、
作品に触れているのにそこに尊敬や羨望はあっても、
安定や安心はないのだとすると此は厄介だ。

結局エンディングのタイトルロールに己の涙腺は限度を超えた。
溢れる涙にカップルはひきまくり…読み通りだね。
でもいいんだ。
あのカップルにとって、羨望や尊敬は勿論「ほっと」安心させてあげることもできない私
は最低でも揶揄の対象とはたりえたろうに…

最後に付け加えるがあのアベック寝てやがったよ。

筆者もおんなじだな。
http://www.frida.jp/