立川志らく独演会「志らくのピン」Part2島田源領プロデュース

国立演芸場は私の生活エリアからするとあんまり関係ないところにある。
永田町やら半蔵門やら、日比谷の向こう側には余り行かない。
国立演芸場の駐車場は閉演まで500円と格安で好きです。はい。

去年だったか一昨年だったか
一年近く最初はTCのよこかわさんから誘われ、立川志らく師匠の落語独演会
志らくのぴん」が毎月渋谷のクロスタワーホールで行われていて
よこかわさんはもとより、わたしをはじめ
とんちきという大学の後輩、従兄弟のブルースハーピストで
蟲メンバーの居相毅と共に足を運んだ。
わたしとよこかわ氏なんざ一年殆ど隈無く運んでいた。
完全に大ファンである。
志らく師の古典落語は古典なのにもの凄く現代を感じる。
さらに現代らしく早いジェットコースターの如くである。

あのクロスタワーホールも今はもうない。
閉館してしまった。で、處変わって国立演芸場となった。

これを読んでる人たちに落語ファンは少ないだろうから、
なんか細かく書いたけど、細かくないか
まあいいや解る人だけで。

この度のゲストはさだまさしさん。
超大物があの国立演芸場という小さな舞台にて唄を謳うと云うから
なんだか凄えや。
さだマニア、志らくマニア揃って満員御礼。
凄いね。雰囲気が落語会じゃないみたい。

まず開口一番さださんが落語家ルック(こういう説明の仕方のが解りやすいでしょ?)でご登場
現在に至るまでのさだまさしの歴史をお話になる。
そのトークが何とも素敵な感じで、前半でぐっと笑いを掴み
後半に家族論というか、お父さん応援企画というかその手の噺が実に良い噺でぐっときた。
最後に唄で締め、おなか一杯。「関白宣言」という唄の噺が主であった。
関白宣言は女性蔑視という内容である。
しかし、発売当初は「女性蔑視」を叩かれたが、もし現在発売していたら恐らく叩かれることはないだろうと仰る。
最早笑い飛ばされるのが関の山。そうかもしれねえ。
元来生物は染色体の種類の多さからしても、雌の方がレベルが高い。
もし現代科学で人造人間を作ったら、女性をこさえる方が遙かにコストがかかるらしい。
こと腕力という次元でみた場合、それは男性にはかなわないとなったのであろうが、
現在雄のわたしより腕っ節の強い女性はゴロゴロいるし、腕力で勝ったとしても何の自慢にも成らない。
「男性の仕事は奥が深いが、あれやこれや何とかこなすのは女性の方がむいている」
らしいが、そう仮定するならば、“女性の仕事”の方が遙かに現代的である。
わたしより地図の読める女性はたくさんいるし・・・まあいいか。
さだ氏は社会全体のモチベーションの低下は家族団らんにあると云う。
お父さんを家長としていた家族制度は形式としては未だ根強く存在はするモノの形骸化は否めない。
「お父さんに食べさせて貰っているのだ」
という思想も残存してはいるが、昨今では夫婦共働きであるし、なかなか成立しにくい。
その二大要因にさだ氏は「テレビジョンの普及」と「給料袋の喪失」を挙げる。
それ以前家族団らんの中心であった父というメディア。
家族は社会の動きを「父の社会生活」という話しから情報を得ていた。
その家族団らんの中心はテレビの普及により、脆くも崩壊。
当初家具調テレビ以前のTVといえば超がつく程の高級品であり、お父さんはそれを床の間に設置した
上座、下座というマナーというかしきたりがあるが、あれは単に奥の方が偉いという噺ではないよね。
床の間に近い方を上座といったのである。
床の間にテレビが設置されたので、父はテレビに背を向けて座らなくては成らなくなり、
父は邪魔になり、ついには下座に追いやられた。
ここからはわたしの個人的な噺になるが、上記の如く状況を内の父は良しとしなかった
ある日当時は現在の様な普及率を誇っていたとは必ずしも云えなかったヴィデヲデッキを購入してきた父。
我が家の家庭団らんの際、テレビの閲覧を禁止した。見たい番組は録画しろとのことだった。
つまりだらだらとテレビを見ることを許さなかったのである。
録画するには番組を厳選しなくては成らず、社会が見えた気になるほど、テレビを見せなかった。
だから我が家は父長制度が成立していた。
まあ其れだけが原因ではない。
母がどうも親父を尊敬しているという感じを家族全体に振る舞っているという性格の持ち主であったのも一因であろう。
噺を戻すと親父は給料袋を持って帰ってくるという経済的な柱としての存在であり、
情報提供するというメディアとしての役割を担っていた。
彼らを嫁という立場で女性がしっかり支え、バックアップし、フォローし、それが社会全体に波及していた。
何しろ現在は不景気な上に銀行振り込みだ。給料袋で現生が届くのとはわけが違い、通帳上の数字の移動だけだ。
父が持って帰ってくるのを待たずとも自然と届いている。
母も「お疲れさま」と労うタイミングを計りづらいであろう。
しかも女性上位社会やら、男女雇用機会均等法やらとなり、ますます難しくなった。
なるほど「関白宣言」はどうもその立場というものを明確にする気配りの唄であったということらしい。
これは私の個人的な意見かも知れないが、立場を弁えるというのは何も下の者が目上の人に対してだけ使うものではないと思う。
目上の人が「わたしは目上である」という態度を示さないと目下もやりずらい・・・というのと似ている。
つまり立場は存在しちまうんだから、しっかりとした基準で線引きしお互いやっていこうというこった。
気配りの唄が当時反発を呼んだ。そりゃそうかもしれない。
でも、実際にはそれは表面的な判断でしかない。
だけど今はもっと非道い。「関白宣言」を聴いて女性は怒らないだろう。
新しいギャグ?とでも思うのではないかね。
さだ氏は鼻で笑うだけと言っていたが・・・
しかし、これは別に女性が悪いという噺ではないですよ。
男性も女性に振り返って貰うようにしなくてはならないのを怠ったというか甘えちゃった。
立場の明確化を辞めちゃったってことでしょう。
まあそれでも家族を作らないと人類は繁栄しないのであるから、文句はないけども。

さてこの度の志らくのぴん
立川志らく師匠はシネマ落語という洋画の落語化を売り物としている。
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hot/shiraku/cineraku2/index.html
前半の数席の古典落語の登場人物、設定などをシネマ落語に投入するのである。
この度は映画「ゴースト〜ニューヨークの幻〜」に落語「宮古川」の設定を盛り込むという落語。
つまりデミムーアがお花さんで、パトリックスエイジが半七ということですね。
しか今回はこのシネマ落語にさださんの名作「関白宣言」を盛り込むと言ったコラボレーション。

しかし素晴らしく感動した。
恐らくわたしのように落語好きでなくても充分楽しめる気がした。
二人の天才が織りなす世界は現代を感じさせ、励ましているように見えた。
http://www.shiraku.net/