青年団公演「暗愚小傳」 こまばアゴラ劇場

こうもバタバタしてると私の如き不器用な人間は
けたたましく一週間が過ぎて、この日記というか雑記というか
の更新を怠る癖がつく。更に容量も少ないので
記憶が飛び飛びになり、数日前の出来事を思い出すのに
時間がかかり、またまた時間がなくなるというスパイラルに陥るのだ。
何とも困ったものだ。
私の生活の中で映画よりも演劇を量的に多く拝見することは少ない。
芝居は自ら媒体を用い調べたりしないが、映画は情報誌をチェックする。
映画は常打ち会場があり、気楽に足を運べるが、芝居はそういうわけにはいかないこともあり気楽に観れない。
気楽に観れるのが絶対条件ではないが、生活に支障を来すほどダメージを受けるのは困る。
観客だって、大変なのだ。
生の生気を生身で受ければそれなりなダメージは受けるだろう。
芝居は劇場という非日常的空間に踏み出さねばならないし、
現実的に其処には人間が大勢存在するし、その人間が俳優という凡人とは違ったオーラのようなものを背負っているのだし、
気楽ではない。
映画はなんだかんだスクリーンである。
更にセットもセットである。現実的な生活空間に存在するモノを
バーチャルに用意しているモノである。負担はでかい。
その負担を承知で其処に足を運ぶのだから
余程の報酬がなければ、変わり者であるといってもいいのではなかろうか。
諸処の理由により、映画にふらりと出かけることはあっても
芝居にふらりとは出かけない。願望としてはでかけたいのであるが
現実的には其処まで許容量がない。器量がない。残念だ。
ブロードウェイや宝塚のように常設会場があれば
心構えは少ないのかもしれない。
さて、
今日は青年団の御芝居を拝見した。
青年団もこまばアゴラ劇場という常設会場を持つ劇団である。
しかしいつもやってるというわけではない。
劇場を貸したりしているし、青年団だけというわけではない。
まあそれはさておき。
この駒場という場所。なんともいい感じの閑静な住宅街である。
住宅街の一角にある劇場という意味でここは好きである。
しかし
この住宅街には個人的に現実感がない。
わたしの生活してきたどの場所の記憶にも重ね合わない。
だからどうも住宅街な気がしない。
見た目は間違いなく住宅街だが、静かすぎる・・・そう感じるのは下町生まれだからだろうか・・・
まず井の頭線自体が既に緊張に値する。
ならば小田急線で行けばいいのだが、何故か井の頭を利用してしまう。
この緊張感を愉しんでいるのかも知れない。
噺が逸れている。
さて、この度の暗愚小傳。頭が悪く、知識の少ない私にはタイトルだけでは何のことか解らない。
実際拝見すると、
かの高村高太郎先生とその妻の生活のドギュメンタリー風な物語である。
高村家の応接間のみをその舞台としているし、漠然とした時代背景は見え隠れするモノの時間軸は飛び飛びだったりすることから
生活全般ではない
“ドギュメンタリー風”と前述したが、ドギュメンタリーではないそうだ。
本作「暗愚小傳」作者のイメージで作り上げた高村高太郎とその仲間と生活の部位。
私の勝手なイメージの高村先生とは違う。
私は高村氏の奥様のドギュメンタリーや師の詩などから勝手に暗いイメージを持っていた。
しかし暗愚小傳ご登場の師はとても明るく
単なるちょっと変わった御仁なのである。
無礼を承知で書くと生活の殆どは駄弁なのである。
あたしの生活と変わらない。
ともすれば
高村先生に興味が湧こうと言うものである。
その明るさに内在する心の闇ならば、何とか私でも理解を示せそうである。
心の闇が内在しても、人間は明るく駄弁るのだとしたら
それは何故だろう?
いや
明るく駄弁るから心の闇が生まれてくるのか?
心の闇を制御するために明るく振る舞うのか?
卵が先か鶏が先かってことなんだろうか?
どちらにせよ。
その無理に対する報酬ってあるんだろうか?
報酬って言うと言葉は悪いかも知れないけど・・・
かのベケットも明朗なお人柄だったらしい。
しかしまあなんだ、
それでも尚人間は生きるのだ。生きるって何だろう?
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