永年の約束

「今度飯でも食いに行こう」
とか
「たまには連絡くれよ」
とか
「メールしてね」
とか
別に利害関係の存在しない相手に対し、沢山の人は社交辞令を言うらしい。
私も例に漏れず・・・といいたいところだがそんなに割り切れてはない。
いつか実現させたくて約束はする。
とはいうものの一日は24時間しかないし、8時間超の労働時間や睡眠時間を引けば
残りの8時間以下にプライベートにおける約束を叶えていくのは結構酷な噺だ。
移動時間もあるし、ロスもあるだろうし、趣味があったり、様々な活動をしている人なんて
ホントに時間なんて無い。更に気分が乗らないケースだってあるだろうし。
まずの噺余程タイミングが合わない限り実現しにくいのだ。
でも人間同士関わりたくて、願望を口にする。
それが約束となり、まず叶えられないことから、社交辞令と納得する。
これの繰り返し。
だったら、その約束は期待しないで待つ夢のような存在として捉えるべきなのかもしれない
こちらも無理に時間を作ってくれるという行為は嬉しいが、望んではいない。
出来ればそうして貰いたいが、生活リズムを破壊してまでの遭遇を理屈の上では望んではいない。
でも、心情的にそうして欲しい時もある。そんな時苛々してしまう。
だから夢だと想うことにしている。もし実現すれば嬉しい。それだけだ。
と、まあそんな風に想っていたら、やっぱり約束はなかなか実現しない。
でも諦めず、時々連絡して、約束の件を促す。
その時相手がそんな素振りが無さそうならば、身を引くこともある。
でも大抵、またまた約束は盛り上がる。
それらを続けていくと何となく実現の可能性が上がる気もして、気も紛れるってものだ。
私は人間が好きだ。人間ほど揺らいだ生物はいないように思える。
他の生物は遺伝情報の伝播を基本としてプログラムされたとおり生きている様に見えるのに
人間はそこら辺が判りにくい。きっと同様に生きているのだろうけど、色んな事考えるからか
どうも判りにくくなってる。
で、其処が堪らない魅力であるように想う。
まあこのブログに散々同様の内容のことを書いているから読んでくれると有難いな。
そんな人間好きの私は苛々する自分も好きだし、何となくしてしまう約束も好きであるし、
タイミングがあって逢えたときの喜びもまた好きである。
なんつうかね。砂漠を旅していて、偶然オアシスにたどり着くような面もち。
そんな約束が今日果たされた。
特になんだというわけではないけれど、何気ない日常を送りながら、それなりに約束を心の何処かに置きつつ
生活してれば、ある日そんな些細な約束は果たされたりするんだと今日は想った。
かれこれその人との約束は3年ほど前にした気がする。
一年に一回ほど約束の確認はしていたけど、ホントに飯を食う日が来るとは或る意味驚きだった。
ホントに飯食っただけだし、2〜3時間程度、割とオフィシャルな会話だったけど、嬉しかったな。