忠臣蔵2004 グランシップ

“頃は元禄十五年、極月中の四日の夜、討ち立つ時刻も丑三つの、軒の棟木に降り積もる雪の灯りが味方の松明・・・”
と講談で語られ、現代でも年末のテレビドラマの定番で、映画化もされ、舞台になり、
今昔日本に於いて知らぬモノはないほどのストーリーである忠臣蔵
五万三千石の赤穂浅野さんと吉良さんの喧嘩・・・ストーリーは良いや。
五万三千石ってことは300余人ってことなのに、討ち入りに行った忠君は四十七人。
二百五十人は様々止ん事無い理由で行かれなかった。
で、まあこの度の舞台はその討ち入りに決まるまでの話し合いにスポットを当てられたものだ。
つまり会議。
しかも日本人のやるしかも、江戸時代の武士がやる会議だから、なかなか決まらない。
それどころか、恐らく話し合いなんてろくにしたこともない御仁らばかりなり。
忠君だ武士道だ侍スピリットだ何て言っても、元禄の御世には形骸化は否めない。
現在の日本人に神風なんて言っても、言葉は知ってるが、内容は解らないのと同じ。
平和で闘魂なんぞ忘れてしまったし、民主主義でだれが一番偉いのか解らない。
とにかく毎日の生活のが大切になっている。
悪いんじゃない。しょうがないでしょう。
日本で「パールハーバー」なんて映画が流行ったりするんだから平和だ。
武士なんぞと言っても戦ったことなどないのである。
天下太平の御世に討ち入りという結論が出たのは単なるええかっこしーとも言える。
だからまあ二百五十人は行かなかったのかもしれない。
見栄よりも生活のが大切なんだ。平和の御世だから。
運命的に四十七志となった皆さんは泉岳寺に未だに奉られ、線香は絶やされずだが、
実際には行かなかった連中のが多いのである。
無理して四十七人に選ばれたことは美談であり、日本人の心の如くに
現在でも奉られているが、実際の下々は二百五十余人なんだから、
これって日本人の心と言えるのかね?
それは理想であって、実際は・・・ってことだろうね。
志は高い方が良いのかもしれない。
しかし、志が高すぎて、そのため、周囲を苦しめるのはあんまり誉められた行為とは言い難い。
どっちが良いって話じゃない。運命だし、偶然が決めることだろうし。
ただカッコつけた奴で成し遂げた奴はかっこいい。
しかし殆どは無理。無理無理やるのはかっこも良くないし、困ることも多い。
じゃあ無理は良くない。無理のない奴だけ行こう。討ち入りに。
とそんな会議を進行するだけの話。
事実、日本のあらゆる話し合いはこういう決め方だ。
一番話し合いて簡単に決まるのは「やめよう」というものだ。
「やめよう」ということを決める話し合いを続けているわけである。
やめやめやめをやめて、一つが残る。
で、討ち入りが決まったんだから、なかなか立派な人たちだと言えるのかもしれない。
でも行きたい人が来ればいいよってのはおんなじだし、日本人の心は素晴らしい。
で、実際行った人も、行かなかった人も行けなかった人もとてもいい。
魅惑的な決定だ。誰も傷つかない。
http://www.spac.or.jp/chushingura.htm