恋する幼虫

恋する幼虫 [DVD]
20代のあたしは思ったことを言っていた。
勿論現在も確かに思ったことしか言わない。
しかし当然色んな思いが瞬間的にもあるし、一貫してなかったりも当然するし、
外的要因により喜怒哀楽が変化もあるし、変遷するし、更に考えたりもして、
考えあぐねたりもしちゃうわけだけだから、もう頭の中はめちゃめちゃ、
とても全てを口にしていたら己も堪らないし、周囲も堪らない。
「周囲が堪らない」のは当然周囲も人間だから嫌悪感なり、怒りなりを此方に示してくる。
じゃあそのリアクションに対する、弁解というか、説明というか、誤解を解く作業をする。
だから己は更なる堪らない気分になったりするはずだが、誤解を解く方が遙かに重要ならば、その作業をめんどくさいといはならない。
「20代のあたしは思ったことを言っていた。勿論現在も確かに思ったことしか言わない。」
と書いたが当然全部言えるわけはない。言わないことだって当然有るのだ。
しかし、“20代のあたし”と現在では明らかにその“言わない”基準が変わってきている。
“20代のあたし”は生理的に決めてきた。漠然と。
現在のあたしはちと考えるようになったように感じる。
生理で突き進めるのはまるで障害がないからなのだろう。生理的基準だけで充分やって行けた。
つまりそれらに苦にならなかったのだ。逆に思ったことも言えないなんて厭だとすら思っていた。
現在でも厭だが、それよりも厭なことが起きたということだ。
それはズバリ体力の低下なのだろうと思っている。
年末恒例の「徹子の部屋」でタモリさんが言っていた。
「年々年を追う毎に日数の経過が早く感じるようになるのは、能力が落ちているかららしい・・・」
つまり例えば二十歳の時、「一時間」で出来た作業が二十一歳では「一時間一分」かかるようになっていいるらしい。
これは或る意味時間は年々少なくなっているとも考えられる。
体力の見えない低下が思考ストップを加速させ、当の本人にとっては時間の経過が早く感じるようになる。
若い人は凄いのである。時間があるんだから。まだまだ私もだけど。
だから生理だけでは無理で、若干その思考ストップを止める感じになってきた。
つまり「楽」しないと時間がなくなる恐怖が芽生えてきたって事だ。
最近このブログを読んでると思うのだが、「愛」というとても楽な言葉を多用している。
過去の日記を読むと、愛は「罪悪感」とかそういう言葉に置き換えられている。
「愛」を「罪悪感」と言われて、いい気分にならない人たちからのクレームに幾らでも対応できていたんだろう。
今は対応できなくなってきている己を認めたくないからか、面倒なく愛。
じゃあ「愛」と呼ぶことにクレームをつけてくる皆さんにはどう対応するのか?
「同じじゃねえか?」
と言われりゃそうかもしれないが、まあそこはね。説明しやすいからね。
つまりなんで「愛は地球を救う」って言うかっていうと「楽」なんだねってことなんだなってことが何となく解ってきた。
でもまあそんなことどうだっていいのだけどね。
どうしてかっていうと、心情ってのはやっぱり理解するものじゃねえんだと思うから。
理解という言葉そこではあまり意味を為さない。
じゃあ心情を不理解のまま、話を進めると愛も罪悪感も欲望もみんな一緒。
心情的に違うがモノは一緒だろう。感情を害したら申し訳ない。
めんどくさいとか時間がないとか体力の低下とかじゃなく申し訳ない。
理解では心情は語り尽くせないと思っているのである。
善し悪しではなく、好き嫌いで決めるしかあるまいってことだ。
「愛の悪用が欲望だ」と先日書いたけどそれが好きか嫌いかってことだ。議論の余地がない。
余地が有れば、クレームに幾ら時間をさいても惜しくはないが、好き嫌いは発表を聞くだけに留まった方がいいように思えてきた。
時間が速くなってきている昨今では。
だが人間は心理で生きているだろうから、其処を無視は出来ない。
「楽」だからって全て通り過ぎることはないのだ。
じゃあその好き嫌いという心情的な部分は大切だ。己にとって。
だから、通り過ぎれないものを対象に好き嫌いを決め、時間を割こうとという
当然とも言える作業に切り替える必要性はあるんだろうな。
遅いけど、気が付いたみたいだよ。痲酔君は。
だからまあロマンチストでばかりもいられないんだろうな。
生活のが大事なのかもしれない。いやいやそれだけじゃないよ。
理想はある。現実は厳しい。じゃあ諦めようとはならないよ。
「理想と現実は違う。」なんて一生思うことは出来ない。
理想と現実の狭間でずっと藻掻き続けるし、心は理想をいつも抱えている。理想を夢見てるわけじゃない。
それに現実が合わなくても、腐ることなく、当然のこととして、理想はいつも心の中にある。それだけ。
理想って厭な言葉だね。他に言葉が見つかればそっちのがいいなあ。