▼江戸開府400年記念コラム「江戸ゲノム」(堕病原体処方箋 桟従七號昭和七銃蜂年肋月銃肋日発行発行 より)

 先日珍しくTV鑑賞てたら、「体臭には雌株が効く」との事。
別段体臭で悩んでるわけではないのですが、食卓に丁度雌株がありましたので
取りあえず食しますわな。基本的に雌株好きの痲酔は気が向いたときに食べる
毎に「雌株は体臭に効く」という事を認識しながら食べるようになるにしても
「体臭に効く」から食べるようになるわけではない様に思うのです。
 しかし世間様では次の日の夕方のマーケットで雌株の行列なんだとか。つま
りTVで「○○が良い」となると、皆さんこぞってお買い求めになる。皮肉れ
ば「体臭がきつい」ということをアピールしにいくってことらしいですな。そ
して食べてどうでしょう?ある人は「体臭が消えた」と思い、ある人は「別に
・・・」となるでしょうね。体臭を一番の悩みとして抱えている方はそりゃ背
に腹は変えられないから、今後生活に雌株を効用があれば取り入れるでしょう
が、其れ以外の皆さんは効用があろうとなかろうと、数日で忘却の彼方に追い
やられ次の「○○」に飛びつく。
 此の現象まあ何か理解は示せるのです。痲酔も少なからずやってることだし
おっぽのないウマ野次馬って了見は都会人ぽくて好きですしね。雌株っていい
らしくってよお!って会話するのは平和で良いなって思いますし。取りあえず
買ってみるってのは好きな了見です。やってもみないで、文句言ってるよりは
ましです。でも己の判断基準にその情報なりを乗せてみて其処で篩にかけて、
効用があるなしに関わらず決めるってのもいいんじゃねえかなって思うのです。
とどのつまり自分の判断基準において選択していくのが人生だと思うのです。
何か自分の判断基準をマスコミ任せにしている感が否め無いと感じてしまうん
です。
 取りあえず野次ウマる。で、忘れ去るのではなく、自分で良いとしたなら
取り入れ、悪しとしたなら葬り去り、どうでも良いとしたなら忘れ去る。
「じゃあいいんじゃん」
まあそうなんですけども。この判断基準って奴もなかなか手強い相手でして、
人間は動物ですから何処かで「生理的な判断基準」を持ってると思うのです。
だけど、其れは曖昧で己でも管理しきれないものだから、認識し、データ集め
して、己の判断基準を経験なり、思考なりで決定していくんだろうと。基準が
蒙昧だと自分でも辛いだろうし、形式的基準とでも申しましょうか、その類に、
頼るところが大きくなる。はずなのです。でも違うみたいなんですね。
 確かに形式的基準を設けることにより生理的基準やら心情やらが付いて来れ
ないケースは頻繁にマキオコル現象でしょうから、面倒なんですかね。マスコ
ミやら学校教育やら、科学やら、民主主義やら、経済社会やらに依存してしま
う傾向にあるのかなって違和感を感じずにいられないんです。
 別段其れならそれでも構わないとは思います。結構なことだと思います。理
屈並べるのが偉いんじゃないし、痲酔みたいにせこくないんだってのも良いと
思います。確かにおいらせこい。せこいから判断基準の認識に日々いっぱいっ
ぱいなのかもしれないです。だからせこかろうとせこくなかろうと、お互いい
じゃないですかってなことです。えじゃないかって事で御座います。
 生理的基準はみな持っていることでしょう。痲酔は己に対しせこいし、疑問
だらけで、そいつを一秒でも早く解消しないと居られない下品な男です。だか
ら楽しいですねえ。己ってなんじゃろうって日々生きてるわけですからせこい
ですけど、もう此はしょうがないんで諦めてます。はい。科学とか民主主義と
かよりも己主義・・・何か此犯罪者みたいですね。
 痲酔はどうも人に何か説明する時に結果だけ伝えることが出来ない手合いの
様でガス。プロセスは勿論の事、結果も四方八方こねくり回して説明しないと
いられない。でもね何処かで思考停止はしているのですね。一番己にとってや
りやすい、好きな、都合のいい、ところで思考停止している。所詮思考停止な
ら考えない方が良いという考えもあるでしょうが、こちとら考えつくすつくす。
時々身体が居たくて血は居たりしても納得行くまで進むのです。江戸っ子は一
か八か。間はないのです。
 と言ってみたものの全てに一か八か思想を当てはめてるわけではないので、
これまた中途半端思考停止なのですがね。とどのつまり同じなのかも知れない。
生理的基準のみで生きてる人も形式的判断基準に生理的基準をあわせていって
も究極は同様なりなのかもしれない。ならせこくない方が良い。其れのが無駄
がないか・・・無駄好きなんだけども。

 結局20代最後にさしかかってるのに未だ半端な痲酔ですな。