T3

ターミネーター 3 プレミアム・エディション [DVD]
ガキの頃、筆者は不眠症であった。
30を迎えた現在でも変わらず寝付きは悪い。
寝付けずにいる筆者の幼少期、決まって脳内を巡るのは不安や恐怖。
母親が死んだらどうなるだの、世界が終わったらどうだの、
己の死に対する思考であったり、不安の対象はあくまで死に対する恐怖。
もっと云えば、
幼少期に現存するあらゆる事象が欠落していくことに対し不安を感じていたのだ。

そんな折り決まってお袋にそれを漏らし、慰められた。
母親は「男の癖に」を始めとする常套句でガキの筆者を揶揄したが、
最終的には受け入れてくれた。

「人間はいつかは死ぬもので、親より先に死ぬ子は“親不孝”なのよ」

そう諭されても、親族と死別を経験しても母親だけは健在のままを信じて疑わない。
母親の発言で理解していた部分は祖母が健在な限り母親は生きていると信じていたのだ。
友人の死にも立ち会ったし、人間を始めとする生物が息絶える瞬間を何度となく見たが、
不思議と母親の死だけは有り得ないことだと思っていたのである。
やがて幾つだったか10代のある日、
小言を繰り返す母親が無性に厭になった時期つまり反抗期が来たけれど、
別に其れでも前述の思考は変化はない。いや希薄にはなっていたかもしれない。
更に死に対する恐怖よりも今日最後の日がやってきても後悔のない心根を持つようになり、
それがうち勝った。
親不孝になってしまえば、前述の不眠の不安は解消されると思っていたのかも知れない。
どうせ短い一生ならば、不健康はやりつくす事にした。
早く死に親不孝に憧憬の念を抱き、少年時代は過ぎ去った。
成人し、社会人になり、益々希薄になる思考であっても、その憧憬は消えず、
蝕まれる肉体に喜びを憶えては幼少期に路上の占い師に言われた25歳での死が
待ち遠しくて待ち遠しくて…御年丁度ノストラダムス…しかし不発。

ジャッジメントデイは訪れなかった。

25歳までの人生しか考えてこなかった己は情けなく感じたね。
その頃丁度祖母と死別したのだが、彼女の死を持って気づいた事があったのだ。
筆者の祖母は大正生まれ。
彼女は若かりし日から
「今年であたしは死ぬ」
と周囲に漏らしていたらしい。
実際筆者幼少期には祖母のこの台詞をよく耳にした。
「あたしは今年で最後だからお年玉沢山あげる。」
しかし残念ながらと言うべきか彼女は享年84歳で大往生。
60年以上も自己の寿命を勘違いし、それを憂い、周囲に当たっていた。
これは厭だ。
筆者は祖母と同様の道を歩もうとしている。
だが、現在まで親不孝を最終的な幸福と志していた筆者にはどうしたらいいのか判らない。
困惑する日々の到来。
もうナンダカワカラナイし、もうどうでもいいやの繰り返し。
惰性の日々は続いた。
生きるってなんじゃろな。
人間てななんじゃらほい。
おいらは何者なんだ、の繰り返し。

とそんな中お袋が病気になった。
元気すぎて倒れることを知らない人間が倒れた。

しかも病名は癌。

結局一番恐れていたはずのお袋の死に出会ってしまった。
しかし驚いたことに其処には其れを受け入れる自分が居た事。
53歳という少ない年齢で逝った母親はその死に様で生きるということを筆者に教えてくれた気がした。

「人間は死によって完成する代物なのではないか?」

祖母は死に対し早期から心構えしていた物の、それを理由に何にもコミットせず、
何も始めようとはしなかった。
生を案じ、死を迎え入れたいものの、生に対し何一つ成し遂げては居なかった。
其処が最大の問題であり、憂いの原因であることなど考えもしなかった。
母は恐らく判っていたのだ。
父方の祖母の憂いを見透かしていたのだと思う。
その証拠に父は自分の母親に会いに行くことを常に拒んでいたが、
母は我々孫の手を引いて、父方の祖母と闘った。
あれはそういうことだったんだ、と最後に伝えたかったのではあるまいか…

残された筆者は30歳になった。
そんなこんなで20代は終わっちまった。
母が死んで2年が経過しようとしている。
誕生日に母の墓前で手を合わせ、同じく誕生日の母は生きる尊さを…
いや生きている意義を教えてくれているように感じた。
「生きているんだから、なんかやることがあるだろう。」
いやもしかしたら

「生きてるんだから、生きなさい。」

結果母親は親不孝だった。母の母は健在だ。
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