座頭市

座頭市 <北野武監督作品> [DVD]
人間には理由は知らないが精神というモノがあるらしい。
心とも呼ばれている。
“あるらしい”なんぞと書いたが、
そんなことはおそらく乳幼児だって知っているだろう。
だが実際にその存在を見た人間は聞いたことがない。
この場合の見たというのは視覚が作用したということ。
視覚で発見された事のない存在を人間が信じるというのは極めて珍しいケースだ。
幽霊も物の怪もUFOも神様も万人が確認したわけではないので
超常現象とか非科学的であると言われ、あらゆる人が信じることはない。
だが人間は精神を持っているということを知っているのである。
だが目視できないこの精神を確認するのは確かに難しい。
見たことはないがその存在を識るというのは
メディアを安易に信じる現代人ならつゆしらず、
江戸っ子の野次馬達が聞いたらさぞ莫迦にすることだろう。

「その心とかいうものがあるんだったら、見せて貰おうじゃねえか!」

と啖呵をきられるかもしれない。
しかし前述の通り現代人は誰しもその存在を知っている。感じている。
心はブラックボックスである。黒い箱の中は真っ暗でよく判らない。
例えば知識とか知恵とかいう範疇で“解っている”事に
心は反応してくれない事が屡々ある。

「今やろうと思ったのに…」

とか

「解ってるよ」

なんぞと発言してる人を見かける。
彼らはその類であり、情報としてそれらを掴んではいるモノの心は作用してくれやしない。
つまりそれは解ってないのである。
己の心について存在は知っていても、
己自信の事なのにも関わらず、人間は解らないのである。
人間自分のことはよく判らないのであろう。
その手の弁解を含めて、
心という未確認な存在に罪を擦り付けて暮らしているといえなくもない。
そういった誰のブラックボックスでも中身は誰も理解できないのだが、
周囲の人間がふとした弾みに気が付くこともある。
感覚的に気が付く。
良いとか悪いとかではない。
己で気が付かない自分のことをどういうわけだか気が付く人が
周囲に存在するというのは幸せなことなのだろうな。
だがまたもやブラックボックスはそれらを一蹴する。
謎がまた謎を産み出すように姿を隠しちまう。
その周囲の人間が気が付いたブラックボックスの中身を聞き入れることはないのだ。
更に素直に聞き入れたとしてもナンの証拠もない以上、
それが真実かどうかは解らない。
そんなブラックボックスを抱えて人間は死ぬまで此奴と付き合うのである。
困った現象だ。

このブラックボックスの思うがままに全てが進んでいったら、恐らく世は統治されにくい。
中身についてのヒントをくれる人が、言語の違う人、特に好きじゃない人、嫌いな人、
尊敬できない人等々だったらまず悪い方に行くんじゃないのかな。
人間は欲望というまたまたブラックボックスの内臓物を難解にさせている感情を
持ち合わせているからね。旨くはいかなそうだ。
欲望に於ける争点がまるで違う手合い同士なら其程
問題はおきにくくとも、近い、間逆だと来たら争いは避けられそうにない。
近ければ徒党を組み、間逆ならば争うだろう。
だからブラックボックスなどという理解不可能なモノを抱える人間を
統治させるために常識やら、暴力やらが存在させてなんとかここまで来たのだろう。

さて座頭市はどうなんだろう?

何故座頭市は人を斬るのかね?
筆者にはまるでわからない。

ブラックボックスを抱えた若輩者の筆者には解らないが、
もしかしたら中身のヒントに気が付いたのでは無かろうか?
気が付き、
まるで聞き入れようとしないブラックボックスに制裁を加えているのではなかろうか?
結局理屈や常識よりも暴力の方が遙かにそれらを表現するにはむいていると決め、
呆れることもなく我々人間にメッセージを送っているのかも知れない。

そして我々若輩者はいつでもブラックボックスの中身を知りたがっている
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