かもめ・第二章

わたしの大学の後輩である大野裕明(花組芝居)君が演出助手を務めるとのことで
天王洲アイルアートスフィアメックスにて芝居を拝見した
舞台の都合上客席が少ないとの触れ込みだったのと
海外からの大物演出家製作ならびに
アントンチェーホフさんの「かもめ」が演目と来れば期待せずには居られない。
率直に申し上げると、大変素晴らしく、わたしが過去に鑑賞したどの
「かもめ」よりも感銘を受けた。
途中喜怒哀楽を激しく憶え、帰り道では久しぶりに何処かすっきりした
面もちであった。
しかしまあなんというかね
ここでわたしが原作の「かもめ」について感想じみたことを書くのも
なんだか意図と違うし、かといって
今宵の演劇について書こうとすれば、実際わたしが生理的に感じたこととは違ってきてしまう。
この生理という奴が相手だとどうも筆が進まない
なに筆に限らず、喋り、駄弁り、キータッチ、ボディランゲイジの
全ては沈黙する。
何沈黙とは言っても相手の目を見て話せば
相手に伝わるか否かは別として、わたしの望むようには表現できる。
だが其れ以外はどうもわたしの望まない形式になってしまう。
生理を形式に返還するという作業の難しさに直面する。
あくまで聞き手を無視してもそうなのだから始末に悪い。
これは昨日の日記にも書いた「水の女」と同様のことである。
しかし実際人間なんぞ生理的な生き物だろう。
論理なんてモノは間違いなく後から来たものであろう。
もっといえば生理を説明できないから論理とか常識とか言うモノが出来たのではあるまいか。
するっていと
生理的に衝動を受けたものを相手に伝えるべきなのかもしれない。
とするとわたしは大変な間違いを犯しているのかも知れない。
己の生理的基準を分解して、論理や形式として示すのだが
それがいまいちままならないからストーリーを分解しているのだとすれば
それこそ無意味であろう。
ほんとは生理的にぐっときたモノこそお勧めすべきであるのに
それをやらない。いや少なくても日記では書かないのは
大変な間違いではないか・・・とさえ思ったりする。
「他の処ではやってるじゃないか」
と言われればそうなのだが、なんとかここでもっともっと
お勧めしたい。でも出来ない。歯痒いなあ。
お会いするチャンスがある人には聞いてくれれば話しますがね。
http://www.kunauka.or.jp/jp/kamome0401/01.htm