ああ・・・

嘗ての私は死ぬことばかり考えていた。
死に対する過剰な期待感を持っていたんだろう。
死ねば全てが解決すると漠然と思っていたとは思えないが、
早く死ぬことを一つの美意識だと思っていたようだった。
「死に急いでいる」
とよく言われた。追いかけられている感覚により早く何かに辿り着きたかったのかも知れない。
ある日それは己に対する過剰な期待感から来るもののような気がしてきた。
己に過剰な期待をかけることで周囲との差別化を計り、「痲酔ヤスタカ」という人物を演じるようになった。
こうして書くと全く情けない。
しょぼい。
恥ずかしさすらある。
いつしか死に対する期待感は喪失していった。
死という逃げから逃げた。
いくら己が「私は○○な人間です。」と言った処で
「そんなことはないよ。●●だよ。」
と評価されれば、こと評価という面ではそうなのだろう。
真実なんて解らない。だが相手は客観の名を借りた主観でそう決めつけるのだ。
あげくに決めつけた責任はない。決めつけた意識すらないかもしれない。
何しろ決めつけられた当人は無責任に出来やしないわけだ。
相手は何気なく発する言葉だから、当人ほど興味はない。
とくれば当人は堪らないのかも知れない。
堪らないから自己をプロデュースして、何とかその人災を避けようとするのか?
だとすれば、何故なのか?
更にその演技を死ぬまで続けることになるのか?
その演技は決めつけに対する恐怖ならば、やはりそれは無理があるのか?
結局そのこと自体が己に対する過剰な期待から来るものなのか?
最近私はある転機に差し掛かってる己に気がついている。
転機というのは物理的に生活環境が変化していくということ。
心情的な変化はおそらくない。
ないから、形式変化に内容が対応できてないと言った方が適切かも知れない。
だからこの形式変化にじっと耐えて居る状態である。
例えば数年前では考えられなかったことだが
メールの返信が滞る。
モノを考えて返信しなくてはならない対象には時間がかかるようになってきている。
即座に生理的にアドリブで処理できる返信は今まで通りの対応が可能だが、
そうでないと苦しみ、悩み、忙しいなど諸処の理由で遅延する。
これも逃げであろうか?
これも演技を維持し続ける為の策であろうか?
だとすりゃ情けない。誰も求めてない・・・いや
己が求めているのかね?
だから矛盾が始まるのかね?
結局私には何一つ解っちゃいないだろうか?
己に課せられたプログラム以上の許容量は存在しないのかもしれない。
そりゃ動物だから一律五十歩百歩なんだろうが、
己に対する過剰な期待により追いつめられてるだけなんだろうか?
自己愛により他人を観ることをまるで怠っている証拠なんだろうか?
もう少し、もう少しだけ待ってくれと言っても最早誰も聞いてくれはしないのかな?
この転機はいつ終わるのだろう?
そう考えてる瞬間に最早終わっているのかね?
ああ・・・これは単なる愚痴なんだろうか?