BRAZIL展 BODY NOSTALGIA in 東京国立近代美術館

近代美術館のある北の丸公園もなかなか良い散歩コースである。
しかし
烏が多く不気味でよろしい。
近代美術館なんて初めて行った。そういえばってなもんである。
反対側には武道館がありその先には靖国神社があるんだから
その先は神保町であるし、まあ身近な感じはするのだが。
さてこのたび
足を運んだのは伯剌西爾
伯剌西爾と聞けば、
サッカー、アイルトンセナ、珈琲、アントニオ猪木リオのカーニバルとまあ割とそんなイメージかな。
しかしこの度の展覧会はどうもそういった日本人的なイメージで対応すると偉い目に遭うといった催しのようである。
私が最も記憶に残っているのは“食人”という響き。
食人という嘗ての風習と欧州よりの吸収という意味合いを混在したものであるという。
そもそもこの展覧会の副題BODY NOSTALGIA 身体 郷愁
伯剌西爾を始め南米の地は貧困からか、犯罪が耐えない。
しかし伯剌西爾という地を離れることは出来ない。
私が持っている伯剌西爾のイメージは陽の部分なのかもしれない。
伯剌西爾の大地にあれだけの陽が存在する裏には影があるのは
平和呆けした私でも容易に想像がつく。
結局全てが中産階級の中途半端な平和国家の反対側の
大きな華やかさにはかなわないだろうし、
理解できないところである。
その派手さのみを追いかけ、影を見つめることは出来ないし、
出来ても理解は出来ない。
日の光に照らされれば、日向と日陰が出来るのは当たり前なのに
それが理解できないいつも曇りのこの国。
でもまあ其処に生まれてくすんだ空を青空と信じ込めれば
それでいいはずなのに・・・
なまじかいごろされるから苦しむ。
しかし
その苦しみはきっと伯剌西爾の影からみると中途半端だろうし、
光にはなりにくい。
弱ったな。
閉塞感があるというのはパワーがあるということなんだと言われても
実際ぴんとこない。
わかったようなことを言うのは簡単だけども・・・
それじゃ厭な己も居て、何だか寂しい限りだ。
さてさて自戒だ。
自戒以外にくすんだ青空の利用価値は思いつかない。
まあしょうがねえか。
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