マティス展 国立西洋美術館

巨匠は女性の裸体を好む。
それは芸術だからと許されているが、スケベなんじゃないのかね?
つまりスケベということは性交渉が好きだろう。
てえことは性交渉は愛とか執着とかの最も解りやすい表現方法だから、
愛とか執着という諦めないモチベーションが高い方々となる。
最も解りやすい表現方法では表現しきれないディテールを芸術にしている様に感じる。
あたしは絵心とか解んないから、そんな気がしちゃう。
以前私のサイトに来てくれていたかつての常連さんが
「芸術とは四方ガラス張りの部屋でうんこをすることだ」
と云ってた。それに近い作品をオノヨーコさんは発表している。
短絡的に露出狂ってんじゃなくてね。
その流れで巨匠は近代芸術において、写実から抽象へと変遷するでしょ?
つまり性交渉で・・・語弊があるならもっと拡大解釈すると生活において
生きていく糧をえる中で、表現する上で足りない部分をみんな一様に
別の形で補っている。巨匠はやっぱりストレートに絵で描いちゃうだけであり
更にそんな人間のナンダカワカラナイ心理のことなので、
抽象画と象られるってえことなんじゃなかろうか?
さて、
マティス展。私はマティスが大好きである。
しかしどうもマティス作品を見ると怒りがこみ上げる。
これどうにもならない一個人の日記だから、不快な人は相手にしないでね。
続ける。
マティスさんは同じテーマで幾つも作品を残している。
それは同じテーマでも複合的な要因により、変化するためだという。
また作品過程の写真を残し、一緒に展示したり、
自らのアトリエを写真や映像で撮影し、公開したりしている。
つまりこれってライブ性を重視しているって事だろう。
演劇やライブは常に安定しない変化した作品となるから、形として残しにくい。
私はまるで残らないと思っているが、例えば
ライブ盤と呼ばれるCDがあったり、映像として残るではないかと云われるかもしれない。
しかし、それは私には全く別物である。
話が逸れた。
ライブ性を重視したマティスという芸術家はなにゆえ美術で作品を残すことを選んだのか?
私にはライブ性という意味では中途半端に見える。
ライブを映像・写真で残すことに意義を持っていたならば、
映画や写真のが遙かに効率も良く、安定しているだろうに。
ドギュメンタリー作品を残したくて美術を利用したのだろうか?
単に生まれる時代を間違えただけなのか?
どうもそうは思えない。何となく。だってあんなに作品が素晴らしいのに。
偶然美術に才能があったから成り行き上、そうなったとは考えたくないんだよな。
怒ってるから、話が飛び飛びですんませんな。
話せば、もっと旨く説明することができると思うんだけど・・・弁解です。
確かに人間とはナンダカワカラナイから、ムラがあり、
ライブというアナログの良さが生まれる。
ピカソさんはもの凄いストレートな愛情過多な人であるのに対し、
マティスさんはムラっぽく人間味に溢れている。
しかしそんなムラを押さえないと、やっぱり暮らしにくいんだよね。
凡人は・・・
その時折で100%諦めないなんて人間には出来るのか?
もの凄い愛で押していくことは危険だから、芸術なんかがあるんだろうね。
だからマティスさんは大好きだ。人間は業深いんだ。
http://www.nmwa.go.jp/