蟲による蟲籠及び痲酔についての見解 居相 毅 “Harpdog”の場合

―管理人、そして親愛なる「いとこ」、痲酔ヤスタカについて―

なかなか特定の人物について語るのは時に辛いことでもある。
わざとらしくなったり、辛辣な本音が出そうになったり…自分のその人への本音を吐き出すギリギリのところで葛藤しながら書くことが多いのではないだろうか。
しかし以下の文についてはそのような葛藤なくスッと書けた気がする。
ほんの一部を除いて…それは文中でも触れることとする。
 私、居相毅は、サイト上ではテンホールズハーモニカ(ブルース・ハープという呼び名が一般的)プレイヤーとして紹介されているが、管理人痲酔のいとこでもある。
「いとこ」は漢字で書くとは「義従兄」となる間柄で、彼の従姉である女性と(蟲対談で登場する「由利子」)私が所帯を持ったのでこうなったのだが、正直私はこの「義従兄」という書き方が好きでない。
それはあまりに痲酔氏と私の普段の様子からすると「なんか違う」と感じてしまうからである。それは初対面からそうだったような気がする。
 彼には申し訳ないのだが、実は初対面のときの様子をはっきりと覚えていないのだ。
なんだか、そういえばいつの間にか話したり、落語を見に行ったり、飲んだりしていたような…そんな印象である。「義従弟」というよりは「従弟」。
義理の義の字がないような、そんな気がするのである。
 この文章をかくにあたって一番苦労したのはここなのである。
痲酔氏は従兄妹連の中ではうちの女房とは昔から良く話すほうだったようで、「ヤスタカくん」のことは結婚前からよく話を聞いていた。
どうしても男同士のいとこだと頭を使わない方向にいってしまうコミュニケーションとはちょっと違う、色々と世間話から少々小難しい話まで長々と話し合うような付き合いをしていたようである。
女房が、上京してからずっと保護者としてお世話になり続けていた痲酔氏の両親に私を連れて行き、彼の実家で対面させてくれた時に「ヤスタカくん」はまだ帰ってきていなかった。
もしかしたら初めて痲酔家に行ったときは会うことが出来なくて、2、3回目位に初対面したような気がする。
当時も今もそうであるが「忙しい人」という印象があった。初対面のその次ぐらいには、もう一緒に「志らくのピン」を見に行っていたような…そのくらいぼんやりとしていて、ある意味「自然に」彼はいつの間にか私の身辺に居たのである。
 私も落語好きであるので、よくその手の話をしたし、今ではほとんど行かれなくなってしまったが、渋谷クロスタワーでやっていた頃の「志らくのピン」を毎月一緒に見に行っていた。
かなりオーソドックスな古典落語の「渋み」のある表現にこだわっていた私に、面白さ、おかしさを追求するが為に格闘する表現者の姿としての落語家の「破天荒な」おかしさに気づかせてくれたのは彼である。
物事をトータルに見ているように見えても、実はものすごくディテールだけずっと見ていたり、ディテールばっかりかなと思えば全体の印象をもしっかり把握していたり、と彼の視点は自分が見ないような部分を捉えていて、席がはねてから話すのが非常に面白かった。
今でも思うのは、痲酔氏は「物事の全体感がよく見える人」かな、ということである。
だから時として先が判りすぎてしまって、辛い思いもするんでないか、という老婆心もある。
自分なんぞは今目の前に立ちはだかる物事にがむしゃらになってしまう方なので、それが吉と出るか凶と出るか、どっちにしても(なんとなく結果が見えているにしても)格闘してみなければ気がすまないのだが、痲酔氏はわかっている場合が結構あるんではないか、と感じるフシがある。
だからよく我々のことも見ていてくれている。
自分のサイトの管理人としては並々ならぬ世話をしてもらっていて、かなりローテクで不精な私にやきもきしながらつきあってんだろーな、とも思うが、それはそれで楽しんでくれているような…(ってのは勝手な言い分かな?)
ここしばらく自分の活動もなかなか忙しくはなってきていて一緒に話す機会も少なくなっている。
以前からの約束である「えのすい」(新江ノ島水族館)詣でも是非実現させたいし、いつの間にかまた来てほしいもんである。

蟲籠について→http://d.hatena.ne.jp/virusdust/20040319

蟲ポオタル→http://www.virusdust.net/