えろきゅん朗読会

  “えろきゅん朗読会”を西麻布のとある地下のバーで鑑賞てきました。店内
 はソファというよりベッドの如く座席が無造作に設置され、薄暗い。恐る恐る
 Kスケと着席。ステージらしきエリアにはマックがずらっと並んでいる。
 Kスケはの感想
  「あんなに淡々としているとは思いませんでした」
 痲酔の野郎20代前半静岡で過ごし、麻布やら赤坂やら六本木やら青山やらに
 はとんと縁がないのですわ。だから西麻布というと、「夜中4時でも大変な人
 通りの“お洒落”なのか、“えげつない”のか判らない街」という浅はかな印
 象しかない。また“えろきゅん”と名の付く以上、ポピュラリティの獲得のた
 めに“妖艶”売りを強調するのかも…等と鑑賞前は想像していたわけでありま
 す。「妖艶だったらいいなあ。おいら妖艶大好きだし」とこの程度。音楽との
 コラボレートとのことで、物理的に声を張らねばならず、強弱や抑揚が困難な
 環境。結果、“小説部”における明確なエロ描写では店内はそこそこの盛り上
 がり。しかし“短歌部”に入るやヒートダウンが否めず、“淡々”が際だって
 いた。(説明下手だけど“えろきゅん”買って読めば判るでしょう)
  痲酔は思うのです。この“淡々”がセックスの正体なのではないかと。極私
 的ですがセックスに限らず全ての交渉事は“相手ありき”なのです。どうして
 も相手がいると顔色を伺ってしまう。行為に入る瞬間までの盛り上がりは何処
 かに飛んでしまい、冷静に交渉事を判断していく。だから痲酔にとってセック
 スは淡々なのであります。「相手の顔色を伺う」と「相手を満足させている」
 が必ずしも一致しないのが難点なのですけども…まあいい。

  「ちょっと見せてよ」
  「見るもんじゃないよ、やるもんだよ」

 (川上女史曰く『エロイカより愛を込めて』by青池保子に登場するエーベル
 バッハ少佐の言葉だそうです。)

  結局あんまり“見ないもん”だから見たいのかも知れません。毎日見ていた
 ら見たくもないもの…でもやりたい。本当にやりたいんだったら、淡々と始め
 るかも知れません。見たいからエロを求めるけれど、実は違うのかも知れない。
 また此は♂の特性か、己のフェチズムの問題か判断りませんが、官能小説で
 “抜く”のは難しい。官能小説では映像がない分想像力に頼らざるをえないで
 しょう。読書では己には手に負えないようなセックスシンボルやいい女を想像
 してしまうのですな。するっていと、いい女の前で己は押されてしまうし、か
 っこつけてしまうし、引いてしまうし、怯えてしまうし、まいってしまう。ち
 ょっとしたインポテンツになってしまうのです。だから精神保護のため、官能
 小説を出来るだけ、エロとしての記憶に留めず、ゲージツやら、文学やらまで
 思考を昇華させてから認識するといった思考停止にも似た状況に身を落とす。
 この時思考停止の対象は性欲ですから、制御しづらい。でも保たないとバラン
 スが崩れてしまうから、やむおえない。例えばエロ本やエーブイなどは映像に
 より想像の範囲の枠が狭いですから、「このお姉ちゃんとやって」などという
 想像よりも先に鑑賞願望が出現る。あくまでバーチャルの領域を脱しないで、
 性欲と向き合えるかもしれないから、小説より映像のが抜けはする。
  雄は“逝った”後、罪悪感が芽生えます。もしかしたら此の罪悪感は本能的
 に“雌の選択”に対する恐怖と密接な関係があるかもしれませんね。何処か溜
 息が漏れ、冷静な己に立ち返る。何処かで多賀が外れているのでしょうか?冷
 静に始めたであろう“事”の最中ぶっ飛んで、“逝って”立ち返る。何だか短
 歌部のトーンダウンが己の“事”の状況に酷似しているように感じられました。
 実際“えろきゅん”が女性の心境なんだとすると、男性は困惑すると思われます。
 “きゅん”の部分に救いがあり、また選んで頂けるかもしれぬという希望は持て
 ますが、雄がバラ巻いたと粋がっている恍惚の果ての果てしない瞳の真横で女性
 は“えろきゅん”を感じているってのは背筋が寒くなる。“きゅん”が無かった
 らもう絶望でしょうな。という咄をKスケにしてみたら
  「そりゃ痲酔さんだけだ」
  「ウルセエ!」
 ついでに私的なことをもう一つ。其の絶望と言う奴がおいら大好きで更なる恍惚
 を産むのです。うっとり…