うわの空・藤志郎一座 「悲しみにてやんでい」サンモールスタジオ

オリンピックイヤーである。
このたびの五輪はアテネ大会で、古代五輪発祥の地であり、
都市として二度目の開催は初となる記念すべき大会である。
オリンピックや最近ではサッカーのW杯などスポーツの祭典は
余り愛国心に関心のない日本人にとってナショナリズムを感じさせる対象のようでありますな。
ナショナリズムってなんじゃいな?
大半の日本人は殆ど自国民にしか出会わないから、それほどナショナリズムを必要としていないのだろう。
それよりももっと身近な東京人だとか、もっと狭域の北千住だとか
そういった地域別の愛情が強いのかもしれない。
「私は日本人である。」というよりも「月島生まれである。」
とかの方が生活に密着している感覚なんだろうか。
しかし狭い範囲での移住も割と多い、特に都心部で暮らす庶民にとっては
それすら危ぶまれ、もっと云うと個人や家族という単位で愛着を持っているということだろうか。
バブル期に「孤独な群衆」といわれたのはそんな感じなのか。
すると普段の生活レベルではナショナリズムは愚か
その愛着単位はかなり細分化されている日本である。
しかしこういったオリンピックなどになると
その「日本語を話す」という共通感覚に愛着を持つということか?
つまり、視野が生活を越えていくので、徹夜なんかしちゃって
生活の若干の破壊に至るわけ。その無理も余り続かないから
この程度で納めているのかもしれない。
まあいいや。
ともかくナショナリズムよりも個のアイデンティティが重要視される国。
いやいや国ではなく、街のが正しいか。まあいいか。
街規模の共同体感の中で、私が生まれた東京下町の伝統的な庶民の娯楽・・・いや思想に最も根ざした芸能が恐らく落語であろう。
私は落語好きである。年齢を重ねるに従って気がついたが
私の落語好きはナショナリズムに近い。
何だかんだ言っても「日本語を話す」以外にもきっと日本人資質ってものがあるだろう。
日本教みたいな感じは誰もが感じているんじゃないだろうか?
諸外国との比較じゃなく、恐らく日本人しか感じることの出来ない感覚がきっとあるだろうと感じているんじゃないか?
と思うのである。それを日本人のナショナリズムと考えても良さそうではある。
だから私にとって落語はナショナリズムであると決めている。
さて、この度の芝居は落語界のお話し。再演らしい。
寄席という落語をきく事の出来る常打ち会場の一日を追ったドギュメンタリータッチ。
もっというと、前座と前座見習いというランクの会場運営を追っている作品である。
主人公は大ベテランの前座さん。
咄家という芸人に成るための修行の一貫として、寄席運営に携わっている・・・こういう説明は此処で読む必要はないし、
私が書くのは烏滸がましいので割愛させていただく。
その前座の主人公は恋人を残し、上京し師匠の門戸を叩き入門。
残した恋人には修行が終わり、二つ目になったら迎えに来ると告げるお決まりの展開。
だが9年の修行生活を経てしまった。
約束の日に迎えには行ったが、やはり再会は果たせなかった。
仕事の方も9年の月日を経て、先輩諸氏、師匠の皆様には可愛がられているが
それほどぱっとしない。恋人にも会えないし、一人前にもなれない日々。
これ聞いてる我々よりもずっと本人は辛い処遇であろう。
その彼の一日を追ったドギュメンタリー・・・これはさっき書いたか。
何だか最近この日記読み返すと、何度もおんなじことを書いている。
頭が悪い上に考えてない証拠が出ていて我ながら情けない。
情けなくて、いいねってなもんだ。
とそんな処に例の恋人が会いに来る。
聞けば結婚するのだという。
住む世界が変わってしまった貴方をみて決断したのだと言うが、
実際は前座の身。
肩書きだけ見れば、人前に出て噺をする・・・客から見れば
いや落語を知らない人から見れば、前座も真打ちも解らないから
そうなっちまう。
ああ、このジレンマ。
「変わってしまったのね?」
に対し、いやいやそんなことはないよといってもダメ。
相手は客観という名の主観で責めてくるし、どうにもならない。
そう思われた言われもあるだけにやむを得まい。
だが、こっちを立てればこっちが立たずではないが、
咄家になるための修行なのだから、やむを得まい。
しかしその修行もいまいちぱっとしないと来ると、
「俺の人生は・・・」
なんてのが始まり、優先順位に対する悩みが苦しめるってのは誰もがあるのだろうな。
だけど、
まあそんなのが人間なんだろう。
人間ってのは落語が語っているとおりなんだろう。
そんな苦しみから一時でも開放してくれる芸能。
彼女に捨てられた前座に師匠が
「明日から寄席に来なくて良い」
と告げる。
つまり前座卒業である。二つ目昇進。
それを粋というのかな・・・たぶん。
人間はダメな生き物である。
だから迷うし、悩むし苦しい。
でもそれらを一時でも肯定してくれるってのは有難い。
根本的な解決には時間がかかるのだから、
その耐え難きを少しでも一瞬でも忘れたら、また明日からダメでも行ける。歩いていけるかもしれない。
ダメだから全部やめにしていたら、本末転倒だ。
その本末の解決は時間と周囲の粋に委ねてみるがなかなかこれはもう個人の力だけでは・・・
ナショナリズムに救われるってな、集団で暮らすって意味なんだろうね。
だから私にとってのナショナリズムは落語である。
さあ始まり始まり・・・何が?
まあそれはね・・・
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