ビッグフィッシュ

ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション [DVD]
噂話ってのは噂されている当事者が聞くと何故か陰口聞こえる。
噂が広がり、出所にブーメランの如く戻ってくる頃には話が大きくなっていて、
まるで己の事を言われている気がしない程に変化が見られるのに、
当人はその話が自分のことを言われているということが理解できる。
そして悪くとる。どことなく嘲笑が聞こえる。
この現象って、きっと想像力の為す業なのだろう。
当事者が内容のすかすかな噂話の隙間を想像力で自動的に埋めて、その話を聞くのだ。
その埋め方も実に緻密なバッドストーリーを産み出すといった形式で行われるから
当然の如く、陰口と相成る。
良い悪いは別として、これは困った現象である。
何しろ私にはあまりタブーがない。
その言い方という形式には不快感を示すことも多いが、内容はあんまり憤らない。
人間なんざ“気”の生き物であるし、業深いと信じているから、
そもそも裏切られたりしない。
行為・行動・発言の内容の類はありのままを信じることはないからだ。
その仕草や言い方、人間性などは信じて疑わないが、内容は変質するのが人間である。
その素直さが好きであるし、そこを咎めたらどんどんコミュニケーションの幅が小さくなっちまう。
言いたいことを言うべきだ。でもその言い方は気にすべきだということだ。
出来事やそれに対する認識の仕方や、記憶、各人の心理なんて到底私の如く人間には計り知れない。
解りっこないし、憶えていられるか解らない。
己のことを言えば、次々くだらないことを考え、容量も小さいから忘れるわけで
じゃあ他人に其処を期待するのは筋違いだと思っているわけだ。
ただ言い方なんかはその瞬間の不快感だから、どうにもならないので、
不快感を与える人とは接触しずらくなるって感じ。
私にとってはそれすら残念であるが、仕方がないね。
言い方はできれば、面白いとか、品があるとか、感動があったりとかがあると理想的である。
ただ、一つの出来事をエピソードとして纏め、実際の出来事よりも大幅に脚色し、
その出来上がったエピソードを記憶すると、それがそのまんま過去として残される。
その脚色意図は話を面白く聞かせるための手段であるはずなのに、
記憶が彎曲するから、過去がねじ曲がって残るとすると、これはどうなのか?
人間の過去は常に記憶の中にしか存在しないのだから、
当人がそう思いこんだら、既にそれはそのまんま歴史となる。
私はそれでいいと思っている。
人間の記憶なんてそもそも曖昧であるし、それに対する認識の仕方がバラバラで
基準がずれているし、立ち位置も違うんだから、同じ出来事でも
変化がある方が自然だ。記録媒体に残されたものだって見る人が違えば
一緒にはならないだろうに。
それをコミュニケーションで、並列化させようとしても難しい。
例えば、人間みんな“赤”という言葉として同じモノでも実際の見え方は違うかもしれないのだ。
“同じである”という確証はもてないのだ。
指を指して
「痲酔のサイトの壁紙は黒だよね」
と言っても、言葉のルールは同じでも確認はできないだろうに。
「これを黒と言いますよ」
と決まっているから、最大公約数的に黒と思いこんでいるが実際にはどうみえているか定かじゃない。
DNA同様似ているだろうが、一致はありえないんじゃなかろうか?
だったら面白い方が良い。例え虚言が混じろうとも。
そんなとき
「どうして嘘をついたのか?」
を問うよりも、
「何故嘘をついたのか?」
に焦点を合わせるべきだろう。それなりに納得のいく理由は存在するはずだ。
上記の場合なら、その方が面白いからというのもある。
面白くもなければ別に理由があるだろう。なければ、虚言癖か妄想好きか
いやいや虚言癖だって妄想好きだって理由はある。
嘘だって事実である、そこでそう発するしか手だてがなかった事実だ。
事実しかない。真実や嘘はないのであると私は思っている。
そして聞いた方も嘘をつかれた方もそれを信じた己にはなかなか着目しにくい。
でも己もそれら虚言を楽しんだんであれば、共犯である。
まあそこまで厳しく言うこともないけど・・・
そんな不確定要素が多いのに、そんなことを信じてしまうのは難しいんだよね。
私には。
それよりもその言い方や自分が相手に好意を持っているか、否か、仕草などで
私は相手を信じたりする。ようは感覚的に相手が好きかどうかだ。
だから好きになった人を私はそう簡単に嫌いには慣れないし、裏切りを感じることもない。
感覚的にね。