TEAM-090 vol.8 『青天井』in 下北沢「劇」小劇場

私には常々不思議に思っていることがある。
それは私の思い過ごしであり、私も同じように観られている可能性もある。
しかしどうもそうは感じられない。
平たく言うと、例えば私は時々調子が悪い。
いやいや時々なんぞと書いてみたが、調子がいいなんて感じられる期間は殆どない。
年中スランプである。だから何処か罪悪感は拭えないし、それにより救われていることもある。
スランプはすぐに他人に悟られ、やがて己の身の置き場に困ることになる。
周囲から信頼は失うし、自暴自棄にもなってくる。
しかしそんな此方の都合はあまり聞いちゃくれない。
現在の好不調で世間様は待ってはくれない。
仕方がないことだと思っているが、どうもどう見ても不調であり、
それほど成果を上げていないのにそれほど大勢に影響のないように見える手合いはゴロゴロ居るように見える。
私が絶不調の最中、当然方々で問題が噴出し、冷や水を浴びせられている。
逆に調子が其程悪くないときはそこそこ良い評価を得ているよう感じられる。
だから不思議なのだ。色々考えられることはあるが、
不調を見せない技術が高いのか、
好調を感じさせないようにコントロールしているのか?
私には解らないし、おそらくは千差万別であろう。
だが、何となくうまくやれている手合いが羨ましいし、不思議に見える。
調子が悪そうだが、逆に評価は鰻登りな手合い。
こんな人はあまりお見かけしないが、芝居や映画、小説の世界には登場する。
これは願望なのか?
いや居ない人を書いたりは人間にはなせない業なんだろうか?
想像力によって産み出された人物ならば、
モデルが存在しないものならば、
一体何なのか?ガキの頃
「金八先生は嫌い。あんな先生はいないよ」
と言っている友人の母親が居た。
そう簡単には見付けられないが、こんな先生が居たらいいなという願望をテレビドラマというスタイルで表現しているのならば
それは人間にとってどんな効用があるのかね?
使ってはいけないけどこれは100万円というのよ・・・
ということなのかね?
TVという箱はそういうものであり、
「TVCMをガキに見せたら、小遣いを500万くらいやらなければなるまい」
とTVか何かで談志師匠が仰っていた。
そういった綺麗事を並べ、客を夢見心地にするのが芸術や芸能であるというのならば
その夢から醒めた後の喪失感はどうなんだろう?
まあいいや話が脱線してきた。
人間だから、そりゃ巧く行かないことは多い。
ましてやそんな不安定な人間の関わりあいが社会ってのを作ってるんだから
まさにカオスである。
そのカオスから抜けだす一つのケースを物語が提案してくるというのは強ち嫌悪感を持つほどの対象とは云えない。
だが、スーパーヒーローにひれ伏す作業というのは一体何なんだろう?
スーパーヒーローと雖も不安定な人間であり、
孤独を愉しみたいと思うだろう。
そんな私如きとは違う抑圧の多い形式的な対象であるヒーローは
殊更に多いはずだろう。
其処を見せては話が生になるよ。
ってのも解るが、これだけたくさんのドギュメントを垂れ流し続けるメディアの前では通用しまい。
だがアナクロとして通用しているのだから困ってしまう。
逆に屈託のないヒーローを待望し、望まれているから故の
描写となるのかね?
まあいいや。
さて本作はカリスマと崇められた人の私生活における苦悩からの
脱出というお話し。
一握りのカリスマが実際は苦悩にまみれ、
それでも人間らしく暮らし、いや寧ろ生きながらえ、
どうにもならなくなり、内面でのカリスマ性を輝かせる物語は
確かに痛快だ。でもカリスマは少ない。
本当にカリスマ的なモノ持ち合わせた人間が
本来の力を発揮するという形式は現在の神話なんだろうか?
そうとも思えるが、私の生活には関係なさ過ぎて、なるほどと思うがそれだけである。
生きることは誰しも大変であろう。
天才ならば尚のことであろう。
だが天才でない我々は一体どうしたらいいのか?
天才でない分気が楽だとでも思えばいいのか?
私はちゃらけて、知らない振りをして、生きていこうと思う。
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